暇つぶしの駄文

暇だったので一気に書いたが、自分の心情や思考をつらつらと書き連ねるというのはかなりストレス解消になると気づいた。
しかしこれは読む側のストレスを考慮しないので、結果として残るのはやたら読みにくく意味も無いような駄文である。



 私は常に私の弱さを意識して生きていた。私が私の中に弱さを認めた途端、ぐるぐると自己論駁・自己批判が始まり、最終的に煩悶を悪と見做し結論の導出を放棄するのが茶飯事だった。


 私は自らを憎んでいた訳ではない。寧ろ自らを肯定しようと幾度も努めた__。
 いや、憎んでいなかった、というのは嘘かもしれない。私は少なくとも、自らを肯定しようとする私のことは憎んでいた。弱さを抱えたまま安穏と生きようとする私を憎んでいた。
 そして同時に、そうやって自己を愛することを許さない私自身をも憎んでいた。辛うじて生きようとするのを阻み、完膚無きまでに深い淵の底に自らを沈めなければ気が済まない私を憎んでいた。
 私は常時、どこまでも私を憎む両者を抱えて生きていた。弱さを嫌う憎しみと、弱さを受け容れる慈しみこそが、それぞれ私の弱さでもあった。

 私は、己を取り巻くあらゆる現実から傷つけられているように感じた。私が自らの弱さをはっきりと自覚するのは、現実と相対した時だった。
 たとえ現実に私を攻撃する意図など微塵も存在しなかったとしても____実際にそのような意図はあり得る筈など無いのだが____私は傷つけられたと感じるのを止め得なかった。
 ただそこに現実が現実としてあるだけで、私は自分の持ち得る総てが吹き荒び散り散りとなって、何も持ち合わせない空虚な私だけが後に残るような気がしていた。それは私の弱さが故に生じる感覚以外の何者でも無かった。
 怒り、悲嘆、嫉妬、怨み……あらゆる負の感情、時には喜びのような正の感情すらも私は蔑み、それらを引っくるめたもののことも弱さと呼んだ。そのない混ぜになった黒く重い感情が現実と相対した私を襲い、どこまでも縛り付けるのを私は感じた。

 私は現実に立ち向かおうとしなかった。弱さ故に。私は立ち向かわない自分を恥じ、激しく憎みもした。弱さ故に。
 現実から目を遠ざけることは容易かったが、私の視界から完全に現実を除き去ることは不可能だった。彼奴は、私の意識の隅に待ち構え、私のことを常に窺っていた。いや、実のところは、私が常に現実のことを窺っていた。
 私は一時の享楽を求めて遥か遠くへ逃避しても、現実から逃れ得ないことを知っていた。かと言ってどっしりと構えて現実に向き合うこともしなかった。これもまた、私自身の弱さ故にであった。

 私はもしかすると弱者たることを快く感じていた。私が弱さに取り囲まれ、無意識にも意識的にも自他から貶められる生活を続けていたのも、恐らく私が弱さのある日常に甘んじていたからだった。
 その点で考えると、自らの弱さを排斥したがる私よりも、自らを肯定する私の方が勢力が強かったのだろうと思う。私は結局自己弁護にしか活力を働かせられない自分を認めると、心底嫌な気分になった。
 私は真っ当な人間を演じるために、形だけ弱い自分を攻撃してみたに過ぎなかった。私は自分の弱さを捨て去ることはできず、真っ当な道筋を自ら閉ざした。私にはその道を歩む資格など無いと感じていたが、しかしそれは、真正な生き方に伴う責務から逃れたいがための言い訳でしか無いことにも気づいていた。
 真っ当に生きるために、____そもそも真っ当な人間はそんなこと意識すらしていないかもしれない____努力をした人間が前へと進んでいき、未だ何も力を尽くした事の無い私が、遥か後方で悶々としているだけであった。私は努力と程遠いところにいた。
 努力をしなかったから弱者なのか、弱者だから努力をできなかったのか、果たして判らない。ただ、努力の不履行と自らの弱さとの間に相関を見出しておきながら何も手を打たないことは、これもまた言い訳する事なく弱さであることは明らかだった。

 かと言って、私も何も為さなかった訳ではなかった。しかし、この言い方は正しくない。行為の上ではやはり私は何も為さなかったし、観念上でも結局最後には何も為していないのと同じだった。
 つまり私は、諦めることだけをした。
 私が弱き自分から脱しようと何か志を起こす度に、行動に伴う責任や義務____これらは凡そ努力の一言で片付けられるように思う。私は何をおいてもやはり努力から遠ざかろうとした____と、弱き自分に甘んじ続けることとを天秤にかけ、必ず後者に重きを認めた。最初から私は、天秤を志の側に傾けようとは考えていなかった。どうやって行動を諦めることができるかどうかを考えていた。それ以降新たに行動しなくて済むよう残された選択肢を減らすために、わざと志を起こしてはそれを諦めることを求めていた。
 私は心底努力が自らの上に降りかかるのを忌んでいた。私はどこまでも怠惰であった。そう、怠惰。私は怠惰以外の何でも無かった。

 私は、私の中に巣食う弱さを肯定したくて堪らないようだ。これは認めざるを得ない。自らの弱さを憎みもしている、だなんてやはり、やはり嘘だ。私は自分の身が可愛くて仕方が無かった。
 私は結局自己弁護しか能が無いようだ。私が形だけ自己批判を試みるのは、その批判を誰かが覆してくれることをどこかで望んでいるからに他ならなかった。この文章だって、堕ちゆく私を擁護する以外の目的をどこかに見出し得るだろうか。私はこんな自らを大いに恥じるが、それを責めて改めさせることはできなかった。ああ、やはり私は弱い。あらゆる意味で弱い。

 私はまた怠惰の殻に引き篭もる。そこから決して出ようとはしないと思う。それを不可思議に思う者もあるだろう。ほんの少しでも努力を行えば真っ当な道へ一歩を踏み出せるというのに、この期に及んでなぜそれを為さないか、訝しむ者もあるだろう。
 彼らは知っている。真っ当に生きるためには対価が必要であることを。責任と義務を支払って、我々は初めて正しく生きることができることを。快楽のみを貪れる生活など有り得ないことを。
 私だって知っている。これは至極当たり前のことだ。私はこれを深くそして明確に知覚した上で、その対価の支払いを拒否している。
 私の行いは極めて悪徳であり、愚劣だ。理解に苦しむだろう。しかし、理解など必要ない。どこまでも怠惰な人間の弱さを、真っ当な人間が認める必要など無い。本当に怠惰な者に手を差し出したとしたら、彼らはそれを見返りなく貪り尽くし、そのまま再び怠惰の日々を続ける。決して立ちあがろうとしない。人の善意を平気で利用し尽くして顧みない下劣さを、怠惰な者は持つ。
 私はこのことを知っている。世間では、私の行いを評価する者など皆無で、私は全く理解されないだろうことを知った上で、私は堕落に身を任せる。
 何故か?などと問いかけてはならない。そこに意味など無い。あるとすれば、それはやはり弱さである。
 それでも私は、僅かな罪悪感と焦燥感を覚えざるを得ない。これも私の弱さ故にである。私はとっくに身を下劣な怠惰に置いておきながら、心のどこかで自分の下劣さを恥じている。自分を下劣だと認めようとしない私が、居る。そしてこれもやはり弱い私の醜き自己擁護なのである。

 私は、ゆっくりとしかし確実に、眼前に広がるあらゆる事象から目を逸らす。そうすることで自らが悪で、劣等で、不可解な存在になっているのを感じると、冷たい笑みが溢れた。
 私は弱さそのものであったが、弱さだけは私と共に居た。私は、弱さが在る日常になぜか奇妙な満足感を覚え、そして静かに目を閉じた。



キモい!キモすぎる!自己陶酔も甚だしい!
そしてこうやって自ら批判を加えることでキモさを和らげようという魂胆すらも見え透いてくるし、自分の心の中に仕舞っておけばいい物をわざわざ公開しているところに承認欲求が垣間見えて輪をかけてキモい!!
だから弱いんだよ。

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