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私たちは、音楽に関心のない人にとっては「どうでもいいこと」に精魂傾けて喜んでいる

ピアノの先生の勉強会、最終回でした

受講生からいただいた花束を丁寧に水切りして食卓に飾り、改めて眺める。
みんなよく頑張ったなぁと思う。
「ピアノの先生になった後も、そんなに勉強しなくちゃならないことがあるんですか?」と聞かれることがあるのだけれど、音大では音楽の学び方の基礎を学ぶようなものだから素晴らしい指導者になるにはまだまだ学ぶことは沢山あるし、4年間で習得できることには限りがある。
好きなことなら「勉強しなくてはならない」のではなく「勉強すると楽しい」ので勉強したい人が集まってくる。
つまり、教える人の中にも音楽の勉強が好きな人と、勉強しない人がいる。
熱心な先生は専門誌を購読して専門家のためのセミナーに通い、自分自身もレッスンを受けたり、演奏会に通ったりと、指導をしながらも学び続けている。

私のところに勉強に来る人の多くは、義務感からではなく、自分自身の音楽を磨くのが楽しくて通っている。
例えば、「音の出し方が変わる」だけで音楽は大きく変わる。
その人の音色が澄み切って美しいものになれば、その人が奏でる音全てが美しい音の集合体になるので聴いていて疲れない、本人も周りもうっとりして幸せになる。
「ハーモニーの推移を細部まで理解する」だけで音楽の移り変わりが鮮明になり、聴く人にストーリーが伝わるようになる。

音楽は、そうしたちょっとしたことの積み重ねでできているから、音の高さや長さや強弱を正しく弾けたらいい、という訳ではない。


私たちは、
音楽に関心のない人にとっては「どうでもいいこと」に
精魂傾けて喜んでいる

で、今日は、その一般の人にはどうでもいいことに命をかけている私たち(主にピアノの先生)が『ピアノランドプラス 四季のうた』という子ども用の曲集を1年かかけて勉強した成果を、プチ演奏会として披露し合う会だった。

ここで大事なのが、日頃はショパンやモーツァルトやバッハを教えている先生達が集まって、子どものための曲を一から勉強しているということだ。
パッと見たら初見でも弾ける曲を、しっかりと解剖するように分析して、隅々まで心を配って理想の美しさを達成できるまで磨いていくというのは、本当にピアノが好きでなければできない。

「ミ」という音符を見てピアノの「ミ」の鍵盤を下ろせば「ミ」という高さの音は聞こえてくるのだけれど(ちゃんと調律してあれば、ですが)、それがその曲のその場所の「ミ」にふさわしい音色やバランスで演奏できているかと言えば、どうだろう?
この話を始めるとセミナーが1本できてしまうのでその小さな違いについてはここまでにするが、その違いに関心を持ち、追求することで音楽的センスが飛躍的に伸びていくことだけは確かだ。

私自身が作曲家として音符を書くときに「その音にどのように生命を与えているか」を、ピアノを弾く人、教える人にも知ってもらう意味がここにある。
おそらく、ピアニストと作曲家では、セミナーやレッスンで何に重点を置いて伝えるかが変わってくる。

私の中の「ピアニスト成分」と「作曲家成分」の割合

私は4歳でピアノを習い始め、小学2年生で好き勝手に作曲を始め、高校1年のときに書いた曲を女の子3人のグループで応募、オーディションで優勝してシングルとLPを出すという幸運に恵まれた。
そのとき、一流のミュージシャンが私の曲を演奏してくれるのを見て思った。
もっと細かく、しっかりハッキリと作曲家の希望を伝えるための言葉を学ぼうと。

そこで音大の器楽学科ピアノ専攻で学んだことは、ピアノ表現の上で大いに役立ったけれど、日本の和声、対位法の指導法の「禁則」から入る方法があまり好きではなかった。
“禁則を犯さない美しい例題曲”を聴いてガッカリした私は、自力でコードの勉強を深め、音大卒業後は八城一夫先生のもとでジャズではなく、ジャズ理論を学んだ。
英語圏で共通の音楽言語と考え方を学べたことは本当にその後の作曲家生活で役立ち、レコーディングの現場はもとより、指導や分析にも役立ち、それが和声、対位法の理解を深めることにもなった。

このことが、演奏するにあたっての私の態度を決定づけたと思う。
ピアノを弾くときには、その作品の音楽的な成り立ちをしっかりと見つめ、作曲家の意図を汲んでから演奏しようと強く思うようになった。
そしてレッスンをするときには、他の人の作品であればなおさら「作曲家の意図に沿うにはどうしたらいいか」をアドバイスするようになった。

私の肩書きに「作曲家・ピアニスト」とあるのは、ピアノ専門誌の『ムジカノーヴァ』に執筆するようになった頃、音大の恩師が「作曲を仕事にするとしても、あなたが専門に学んできたピアノに誇りを持って、必ず肩書きにはピアニストを入れるように」とアドバイスしてくださったことを守っているから。
そのおかげで、腕が鈍らないように!と心しているので感謝しかない。
レコーディングのときにはもちろんピアニスト樹原涼子として作曲家樹原涼子の作品に取り組んでいる。

そんなわけで、作曲家成分多めのピアニストだからこそ、子どもの曲であっても、先生達にはピアニストのように隅々まで美しく弾いて欲しいし、子どもにも音楽的な妥協なくレッスンしてほしい。
そう考えての勉強会だから、解説や模範演奏を聴いて終わりではなく、実際に素晴らしい演奏会をして区切りとしたいと思うのだ。

なんて楽しい卒業演奏会!

難しいことを書いたけれど、細部までこだわって学んだことが音楽として立ち現れる瞬間は感動的だ。
その人ごとの音色があり、表現があり、それがよりよく生きるようにとアドバイスをしてきたことを、一人ひとりが自分なりに研究して披露してくれるのだ。
しかも、今回は曲集の中の「6手連弾・4手連弾の楽しみ」というカテゴリーの4曲を十数人の受講生が様々な組み合わせで演奏する。

連弾は、実はソロよりも難しい。
二つの脳で一つのことをするのだから当然だ。
4手のうちの2本の手は他人の手で、6手のうちの4本は他人の手なのだ。
それで息を合わせ、他人の弾く音を聴いて自分の音とバランスを取りながら一つの曲を美しく形作っていくのは至難の技だ。
理想は、一つの脳から4本、あるいは6本の腕が生えているかのような演奏だ。
その音楽を知り尽くした脳と、繊細でダイナミックな音が表現できる鍛えられた6本の腕があればいい。

この勉強会では、二人、三人で弾く他に、オーケストラと合わせて演奏する練習まで積んでいくのだ。コンチェルトのように。
本当のオーケストラと練習すると受講料が大変なことになるので、mp3のオーケストラ音源と合わせる。(音楽之友社のONTOMO Shop でダウンロードできる)
スピーカーからの音量を実際のオケの音量くらいまで上げて共演するのだ。

オーケストラとの共演はとてもとても楽しい。
だがしかし、連弾パートナーの音の動きとオーケストラの中のあらゆる楽器の動きを感じながら演奏するというのはとても大変なことでもある。
「聖徳太子」にならなくてはならないからだ。
聖徳太子なら楽しいだろう。
つまり、誰が何をやっているのかわかった上で自分の役目が果たせると、素晴らしく調和するのだ。

初めの頃は、オーケストラの内容ではなく、タイミングだけを合わせて弾いていた人も、回を重ねると「この曲のオケはこういう編曲だから、ここはフルートとハモるように寄り添って弾こう、ここはピチカートを合図に生き生きと、繰り返しの前はパーカッションのフレーズを味方につけると自然といい感じで戻れる」等々、「オケと共演する聴き方」が上手くなっていく。

受講生が何を聴いていて、何を聴いていないかは、演奏を聴けばすぐにわかる。
私のアドバイスを耳にしているうちに、他の人の演奏の良し悪しの理由がわかるようになり、いつの間にか自分の耳が開いてきて、聖徳太子に近づいていくというプロセスを皆が辿っていく。

弾き方ではなく、聴き方がポイントなのだ。
聴き方で弾き方が変わるのだ。
弾き方ではなく聴き方のレッスンをするのはとても難しい。

そんな風にしごかれたみんな、本当によく頑張ったと思う。
卒業おめでとう!

でも、みんなとは4〜7月の『ピアノランドプラス だいすき くまモン』の勉強会でまた会うことになる。(zoomセミナー、アーカイブ有り)
今回の『ピアノランドプラス 四季のうた』は「ポジション移動を始めたら」というサブタイトルで、次回は「固定5指で弾ける連弾」というサブタイトルなので楽曲の難易度としては易しくなるのだが、そこはシンプルなだけに大きな難関が待ち受けている。

音楽に関心のない人にとっては「どうでもいいこと」について、さらに精魂傾けて喜ぶ日々が続く。

音楽にとらわれた人は、本当に幸せ。


1月に行なったセミナーの案内とテキスト(音楽之友社)

趣味だからこそ


さて、今日はこれから大人のピアノクラスの4回目。
こちらは趣味としてピアノを始めた大人のグループだ。
それでも、作曲家成分を発揮しながら他とは異なるカリキュラムで〈音楽に関心のない人にとっては「どうでもいいこと」に精魂傾けて喜ぶ仲間〉を増やしていくことに変わりはない。
なんて楽しいんだ!





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