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書いて面白いところと、弾いて面白いところ、聴いて面白いところって違うんです。


作曲を仕事にしている人はみんな聞かれたことがあると思うけれど
「作曲ってどうやってするんですか?」とか
「どんなときに作曲するんですか?」とか
とても答えにくい質問をされることが多い。

それは例えば、
「絵ってどうやって描くんですか?」
「絵の具を筆にとって、キャンバスに色を置いていく」
みたいに
「五線紙にペンで音符を書いていきます」
となってしまうと……
きっとみんなが聞きたかったことじゃない答えかもしれない。
動作としてはそんなものなんだけど。
あ、パソコンで作るときにはまた違う言い方になるけど。

どんなときにっていうのも難しくて
「書きたくなったときに」というのもあれば
「締め切りがあるからね」という人もいると思うし、
「楽器の前に座ったら自然にね」ということも多い。


書いていて面白いところ

でも、「書いていて面白いところってあるんですか?」と聞かれたなら、
「あるある! 頭の中には音がね、
コンサート会場にいるみたいにもう
出来上がった状態で鳴ってるのね。
すごい勢いで。
それをね、書き取っていくんだけど、
音楽の流れるスピードで書いていくのが
なかなかスリリングで面白い」
ということなら言える。

または、
「ああ、この音楽は、書くとこうなっちゃうのね!」
という発見をしたときとかね。
何拍子かわからないような状態で頭の中に登場しても、
楽譜にかいてみると何分の何拍子ってスッキリするときもあるし、
小節線なしの不思議な音楽になるときもあるし、
小節ごとに拍子が変わるなんてこともある。
それは、そうしようと思ってなるものでもないので
書いていて面白いことの一つかな」

これは拍子だけではなくて、いろんな領域で「ああ」と思うことがある。
作りながら発見するところが、書いていて面白いところ。


弾いていて面白いところ

私は自分でも人前で演奏をするので(自作自演しない作曲家もいる)、
自分の作品でも、他人の作品でも
弾いていて面白いと思うところは沢山ある。

楽器は手を使うので、特に顕著なのだけど、
「指の喜び」「手の喜び」としか言えないような
楽しみもある。

それは、運動として手がとても喜ぶ動きとでもいうのか、
音と相まって、この動きが心地よい、ハマる、という類の
独特の面白さがある曲があるのだ。
音楽的な喜びとはまた別の、ピアニストの手としての喜び。

こういうところは、繰り返し弾きたくなるし、
努力対効果が大きい場合が多いかもしれない。
すごくわかりやすい例でいえば、
子供の頃にショパンの幻想即興曲が好きで
そこばかり弾きたくなったことを思い出す。

中村紘子さんが何かのコマーシャルで弾いていて、
派手に手を上げるところを覚えている方も多いのでは?
途中でカメラ目線になってませんでしたっけ。
「本当はこんなところで手をあげないんだけど撮影用に」と
何かで仰っていたのを聞いたことがある。
でも、この35小節あたりを選んだのはCMとして大正解。
手が嬉しくて聴き映えがする箇所というのは、確かにあるのだ。


聴いていて面白いところ

「この曲のここが好き」
平たく言うと「ここで胸がキュンキュンする!」
ということがままある。

ピアノの先生にコード分析を教えているのだけど
「ここが好きな理由がわかりました! このコード使ってたんですね」
と感激されることも多い。
自分がなぜ、その部分に惹かれるのか理由がわかるのは
とても嬉しいらしい。

それはある種の分数コードだったり、
他所の調から借りてくる借用和音だったりするんだけど、
そういうことを知るともっと音楽が面白くなる。
しくみを知りたくなって夢中で勉強を始める人が多い。

理屈がわからなくても
その部分に差しかかるだけで、もうドキドキワクワクするというか、
居ても立っても居られない感じになる、
そういうところが何箇所もある曲はお気に入りとなるし、
人はお金を払ってその体験をしようと思うものだ。
(作曲家になりたい人は、覚えておいて!)

相乗効果としては、好きな曲を好きな演奏家が弾くというのが
さらに胸に響くもので、
一度聞いたからもういい、ということはなくて
何度でもリピートしたくなる。
推しが推しを演奏するんだから当然だ。


「音楽は聴くもの」だから、「聴く喜び」
ここが肝心なのだ。


書く喜び、弾く喜び、聴く喜びは、
ダブらないことも多い

書いていて楽しいところは、概して弾きにくいことが多い。
拍子が変わったり、臨時記号がついたり、連符になっていたり、
何かしら仕掛けがあることも多い。

弾く喜びに満ちたところが、聴く人にとって楽しいとは限らない。
先のような両方が合致する箇所もあれば、
弾いてる人は楽しいんだけどね、ちょっと運動っぽい、
指の喜びで書いてるよね……と同業者にバレバレのこともある。

反復の心地よさと、反復の退屈さ、という構図もある。
弾いている人は、反復は楽しい。
(本当は、繰り返しを楽しませるのが作曲家の技だ)

聴く喜びについて言えば、作曲の大変さや弾く難しさと関係なく、
聴いていて心地よい、とか
幸せな気持ちになる、とか
ずっと後々まで心に残る、とか、
音楽としての本質に関わるものだ。
聴き手が成熟しているかどうかという問題もあるが、
未熟な耳でも楽しめる音楽は必要だし、
手練れの耳だから偉い、価値がある、ということでもない。


音楽は、なぜ存在しているか、とか
音楽はなぜ必要なのか、とか
音楽を書かないではいられないこと、
弾かずにはいられないこと、
聴かずにはいられないということはなぜ起こるのか、
そんなことを考えてみると
人生の時間はいくらあっても足りない。
だから、生き急ぐように次の本や楽譜を出したくなる。
答えなんて、きっとないのに。


そんな話をする機会が!

そんな四方山話(よもやまばなし、ってこう書くのか!)を
今度、ピアニストの小原孝さんとすることになった。

作曲家は作品に託せばいい、
ピアニストは演奏すればいいのだけど、
お互い、口も指も達者だから(指が達者なのはもちろん小原さん)、
好き勝手に弾いて喋り倒そう、ということになった。

題材にするのは私の『ラプソディ第1番』と『ラプソディ第2番』。
どちらも初演してくれたのが彼で、
作曲した手書き譜が浄書されて出版されるプロセスもご存知だ。
色々と突っ込まれるかもしれない。

特に、2番は、小原孝氏に献呈した作品だから
お互いに思い入れが深い。
どんな話になるか。


ちょっと曲を聴いてみたい方がいるかもしれないので、

1番の昨年の演奏を置いておこう。


2番の方は、8月20日のピアノランドフェスティバルで
小原氏がソロバージョン初演をしてくれた。
素晴らしかった。
(9月30日まで配信中の有料コンサートでなのでこちらを)


音楽は、紀元前の昔から世界に誕生しつづけているけれど、
日本ではヨーロッパの18〜19世紀くらいの曲が人気だ。
でも、生きてる作曲家の曲を聴こうよ!
今、100年、200年後の人たちのための贈り物が生まれてもいいはず。
それを生み、育てるのは、私たちでしょう?

そう問いかけながら、
樹原涼子の『ラプソディ第1番』『ラプソディ第2番』が
誕生した意味を自分にも問いかける。
そんな四方山話と演奏に興味のある方は、
9月25日にカワイ表参道に遊びにきて欲しい。(要予約)
遠くの人も、配信の申し込みができる。

足を運ぶか(会場には、安全のため予約50席のみ)
部屋にいながらにして目と耳を使うか
選んでほしい。



音楽の不思議を書いていると、筆がとまらない。
あ、筆ではないけれどね。

ピアノ弾きは、パソコンのキーボードを打つのも
ブラインドタッチでめちゃめちゃ速い。
考えるスピードで打てる。
えっへん。

音楽と絵の関係

いや、そんなことよりも
この絵の美しさを見て欲しい。
あまりにもこの表紙絵の評判がいいので、
当日、原画を展示することになった。

これから額装するのだ。
私が額縁を選ぶことになって、ちょっと緊張している。


ラプソディ 書影


画家の本間ちひろさんも会場に来てくれることになり、
「みんなの前で描く?」とか
凄いことを言っている。
本当だろうか。
先日、facebookでお絵描き歌の実況中継をしてたから
本当かもしれない。

私は、絵に触発されて曲を書くことが多い。
今回は、そういう順番ではなかったのだけど、
この絵と曲との不思議な縁についても
思い切って話そうと思う。

音楽と絵の話になると、話は尽きない。
私にとっての絵画の意味は特別で
一枚の絵を何度も繰り返し夢にまで見る。
もちろん、カラーだ。

あぁ、そろそろ切り上げることにしよう。
明日のマスタークラスで「倍音」の話をするのだ。
倍音ってね……(ああ、興味がある方は
『ムジカノーヴァ』8月号に詳しく書いたからそちらを)


noteって、なんでも書きやすいツールなのだな。
しめしめ。
また書こうっと!


そうそう、先日書いた『ラプソディ第2番』が
出版された日のことも
よかったら見てね。








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