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信号機問題は「可笑しさ」のなかに

このところリアルの友人の間でぽつぽつと話題にのぼる「信号機問題」。noteの記事やコメントでもしばしば話題になっていて、いつかこれだけに絞って記事にしてみたいと思っておりました。

信号機問題とは

信号機問題とは(わたしが勝手にそう呼んでるだけですけどもw)、信号機はどんな場合でも守るべきか?という問い、です。もちろん、信号機は交通ルールで決まっていることですから、信号機に合わせて行動を取る「べき」ものです。

しかし、こういう状況を考えてみましょう。例えば、わかりやすくおばあさんが赤信号の真ん中で倒れていて、いまにも車にひかれそうになっている。こういった場合は逆に、人命優先だからルールを破ってでもおばあさんを助けにいくべきだ、と多くの人は考えるでしょう。

更に、これならどうでしょう。深夜2時、周りには誰もおらず、車が来る気配もない、見晴らしのいい交差点でたった5m先の向こう側に行くのに数十秒間ただ赤信号が青に変わるのをじっと待っている、そんな状況にあなたがあったら。。。(100%の安全なんてものはないかもしれませんが)仮に100%の安全が確実に保証されているとしたら、それでも信号は守られるべきでしょうか?こうなると意見は分かれるでしょう。

ふたつの論点

みんなの意見を聞いていると、大筋ここには2つの論点があるように思います。ひとつは交通ルールとしてのルールの論点。これはわかりやすいし賛否もはっきりします。

そしてもうひとつは人間の自由意志の観点です。以前にブータンのメインストリートに信号機を設置したらそれに気づいた王様が怒って撤去させたなんて話を紹介したことがあったかと思いますw これはつまり、道を譲ったり譲られたりというのは機械なんかに指示されなくっても自分たちの意思でできるだろう。それをわざわざ何も考えずに機械に言われるがまま従っている。。。そこには、わたしたち人間自らの意思である「自由」が毀損されているではないか、という激しい自己実現に対しての葛藤があるわけです。

ルールを効率で語る

交通ルールとしての論点だけであればシンプルです。本来、何がなんであろうとルールはルールですから、守るべき、以上終了!という話でしかありません。特に、信号なんて法律ですから、守らないという選択肢は1mmもありません。

にも関わらず、信号機問題を目先の時間の無駄とか、効率の観点で語る人がいます。深夜2時の信号機を守るなんて時間の無駄、割に合わない。渡れるときに渡ってしまうほうが効率的でしょ。もし事故っても自己責任だ、みたいな意見。この意見はわたしには理解できないし、あまり賛同もできません。守ってもいいし、守らなくてもいいルールがあるとすれば、それは「なくていい」ルールではないでしょうか。。。効率の話を持ち出すのであれば、そんなルールなくしましょう、という話に早々に切り替えたほうがよっぽどいい。ルールを目先の効率の観点で話すのは危険です。自分都合だけをみている場合がとても多いからです。この目先の都合と、次にお話する自由意志の観点を混同しないようにしましょう。

渡る意思は誰のもの

もう一つの主張が、先程いった自由意志の観点からの主張です。この観点からみると、夜間に全く人通りも車通りもいない交差点で、信号機の言われるがままにぽつんと突っ立っているあなたは、ただの指示待ちをしているロボットと同じではないか。あなたの意思は?あなはたはそれでも人間だと言うことができますか?

この主張に抗うことはなかなか難しい。人間が自らの意思を無視すればするほど、例えば目の前に車にはねられそうなおばあさんがいても(ルールに従って)誰も助けない。。。なんてことになってしまう。人命と夜間の信号機では事の深刻さが違うだろ、と思うかも知れない。でも、人の自由意志の観点から言えばどちらも同じこと、程度の違い。この判断を避け続けることで、わたしたちは知らずのうちに自らの意思に気づけなくなる。

そのうえで渡らない自由もある

さて、わたしはこの論争を聞いていると、その背景にはいつも微細な「エゴ」が見え隠れしているような気がしてなりません。そこに、みんなが気がついていないような気がするのです。それが今回このnoteを書こうと思ったきっかけです。

自らの自由意志を信号を渡ることで主張した気になっているけれど、そうではないのではないか、とわたしは思う。自由とは「渡る選択」でもあれば、「渡らない選択」でもあるということ。そのいずれをも選択できることが本質的な人間の意思なのではないか。ところが、この信号機問題の場合「ルールを破る」ということに微細なエゴのバイアスがかかっている。「破る」ことで自由意志を保証しようとしているのだから。

自由意志とは破ることでも破らないことでも表現しえない。そのどちらでもないニュートラルな選択の場にこそ宿るのです。

たかが数十秒「待つ」という行為が、無駄だとか割に合わないと感じてしまうのもエゴであると同時に、ルールを破ることもまたエゴの持つ力の誇示になりえる。抗いがたい微細な悦がそこにある。そこにうっすらと見え隠れしているエゴの楔がみえるだろうか。

現代人への「縛り」

さて、すると、わたしは深夜に赤く煌々と輝く信号機を前にじっと信号待ちしている自分を見て、いつもクスリと笑ってしまう。あー、この信号待ちの時間、無駄だなぁと思う。無駄だなぁとも思うけれど、たった数十秒のために、あえてルールを破るほどの価値もそこに見いだせない。そんな健気な自分をみてバカみたいだなぁと笑いがこみ上げる。

そう、ブータンの王様は正しいと思う。信号機などハナから設置しないのが正解なんだ。それでも都市に住む我々現代人は、人間の不合理さと利便性という魔物を相手に、手軽な手段として信号機に頼った。頼って設置してしまった。だからこれはね、現代社会に生きる人間に向けられた「縛り」なんだとわたしは思っているんです。その手軽さに頼った信号機を前にして自らの意志などと主張する資格はハナから我々にはない。

ただね、自由意志を問うとき、ロボットのように信号のルールを死守することと、それとわかってなお信号機の前にたたずむことは決して同じじゃない。後者にはちゃんと自由意志が存在している、とわたしは思う。だからこそ、わたしは深夜2時の赤信号の前であえて立ち止まる。立ち止まって、あぁ、無駄なことをしているなぁと、ただ笑う。

信号機問題は「可笑しさ」のなかに

ある金曜日の深夜、ひとりで信号待ちをしていると、飲み会帰りと思われるサラリーマンが後からあらわれて彼もそれに従った。わたしたち以外には誰もいない、車の往来もない、誰からも見られていないのに、律儀にぽつりと信号待ちをしているわたしたち。

どんな人なのか顔を覗き込んだら、不意に目があってしまった。「いい大人が何を好んでわざわざ信号待ちしてるんですかねぇ。。」とでも言わんばかりに、なんだか急に笑いが込み上げてきた。向こうもきっと同じことを思ったのだろう。「ふふふっ」とお互い吹き出してしまった。そんな日があっていい。

信号機を「渡る」「渡らない」の二択の闘争には、どこかそうでなければ「ならない」という悲壮感が漂う。一方で、そこには第三の選択肢がある。それは信号機を前に「笑う」という選択。現代社会の可笑しさに笑う。自分の行動の滑稽さに笑う。都会の片隅の数十秒の静止にほっこりと笑う。賢者の選択は傍から見るとよくよく間抜けにみえるもの。でもそこに悲壮感はない。対立すべき闘争もない。ただ可笑しさだけが漂う。そんな選択もあっていい。

りなる



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