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父親の浮気発覚から1年後に生家を失ったけど質問ある?(19/20)

『祖父母の最期』
父親の浮気発覚から4年8ヶ月~

上記のnoteの続きです

▼祖母との再会

前回、父と会った際に祖母の容体を尋ねたところ、気になることを言われました。

「ずっと容体は変わらないな。もう家族の顔もわからないような状態で。今度会いに行くか?」

とうとう家族の顔がわからなくなるまで認知症が進行してしまったようです。しかも、その状態はだいぶ前から続いているようで、これは確かめに行かなければなりません。

思い返せば、叔母の家で祖父と会ったときにも、「ばあちゃんは、ワケがわからんようになってしまった」と言われました。少なくともボクの知っている祖母は、何度も同じ話を繰り返すものの、常に家族のことを気にかけている人でした。

そういう事情もあり、大学を卒業したタイミングで、千葉に移り住んだ祖父母に会いに行くことになりました。当日の天気は雨。家から少し離れた大通りに父がクルマで迎えに来てくれたのですが、その後部座席には叔母の姿もありました。

叔母が同行するとは聞いていなかったので少し驚きましたが、父と2人きりになるよりはマシでした。会話の少ない親子ですし、まだ和解をしたわけでもありませんから……。

車内では、叔母がよく話しかけてきました。

「あなたがお父さんと話している姿を見て安心した。たまにお父さんと2人でおじいちゃんたちのお見舞いに行くんだけど、この人、ずっと黙りっぱなしなんだもん」

ボクは、“あの出来事”と“今”は別に考えて父と接するようにしています。語弊があるかもしれませんが、社交辞令に近い感じです。前回のnoteにも書きましたが、父の気持ちを理解できなくもないので……。

叔母のおかげで車内に重い沈黙が続くことは避けられたのですが、ここで気になることがひとつ。千葉へ行くと思っていたクルマが、なぜか埼玉県へ向かっていたのです。

新しい家は、千葉ではなく埼玉? それとも引っ越したのだろうか?

そんなことを思っていると、クルマは春日部市にある介護老人保健施設に入っていきました。

「今、おばあちゃんはここにいるから」

「いつから入ってるの?」

「ここは一週間くらい前。ずっと入院してたんだけど、病院にはいつまでもいられないからな」

相変わらず、ウチの家族はとんでもない情報をサラッと言い放ちます。千葉の家で介護を受けていたと思っていた祖母は、実はずっと入院していて、今はこの施設に入っていたわけです。施設の敷地に入ってから突然そんなことを言われても困ります……。

想定外の展開に唖然としつつも、受付を済ませました。扉を開けるにも、エレベーターを動かすにもカードキーを使い、そうしてついに祖母の居るフロアに到着しました。

そこは“デイルーム”と呼ばれる部屋で、十数人の入居者さんがおり、元気な方はテレビを観ておられました。

このなかに、おばあちゃんがいる……

約3年6ヶ月ぶりに祖母に会えるというのに、「家族の顔もわからないような状態」「ずっと入院していた」という父の言葉が脳裏に浮かび、ここまで来て、急に会うのが恐ろしくなりました。

そんな心配をよそに、数メートル先では叔母が手招きをしていました。

そこには、ひとりの老婆がいました。

▼変わり果てた祖母、そして伏魔殿へ

車いすに乗った老婆の両脇に父と叔母が立っており、叔母がこちらに向かって手招きをしていました。

一歩、また一歩と老婆に近づくにつれて、見覚えのある顔がハッキリしてきました。信じたくはありませんでしたが、その老婆こそが祖母でした。

目は虚ろ、頬はこけ、口はポカンと半開きで、以前の面影をほとんど失ってしまった祖母を目の前にし、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

かつて「この家に3人(祖母・母・ボク)で暮らせればいいのに」と言っていた祖母でしたが、今はその家を売られ、施設に入り、こんな状態になってしまいました。

実の娘である叔母が話しかけても、祖母はほとんど反応を示しません。その視線はもはや叔母を捉えておらず、たまに、かすかにうなずく程度でした。

「おばあちゃん、来たよ」

「……」

「おばあちゃん、元気だった?」

「……」

ボクの顔を見た祖母は、少しだけ目を見開きました。しかし、顔の判別がつかないのか、声が出ないのか、やはりこれと言った反応はありませんでした。

波のある認知症の症状の谷の部分で、この日はたまたま調子が悪かっただけだと願うしかありません。祖母は何か言いたそうな感じでしたが、“言葉”というより“声”を発するだけでした。

父たちがトイレに行っている間、ボクは祖母を連れ出したくてたまりませんでした。「どうしてこんなことに……」という感情を抑えつつ、膝をついて祖母と目線を合わせ、そのシワシワの手を握りました。

「おばあちゃん、何を見ているの?」

「……」

「元気だった?」

「……」

もう少し2人で話をしたかったのですが、父たちが戻ってきました。

「そろそろ、行こうか」

「おばあちゃん、元気でね……」

これが最期になるかもしれないと思いつつ、施設をあとにしました。

次に向かうのは、今度こそ祖父の住む千葉の家。正確に言えば、ボクの生家を売ったお金で買った、祖父母と伯母家族の家です。

クルマに揺られること30分弱。父がボソッと「到着」とつぶやいた場所、そここそが、新しい祖父母と伯母夫婦の家でした。門扉から玄関まではさまざまな植物が置かれており、表札にはふたつの名字が掲げられていました。

“固唾を呑む”って、こういうときに使うんだろうなと思います。自分にとっての伏魔殿を前にして、全身の感覚がピンと張り詰めました。

ここが、この家が……、ここにおじいちゃんが、いる。

▼やはり杜撰だった伯母の介護

玄関の扉を開けたのは叔母でした。とてもじゃありませんが、自分から開ける気など起こりません。また、この家のモノには極力触れたくはありませんでした。

自分の祖父母の家なのに、自由に訪ねることができないもどかしさ……。

出迎えた伯母に対しては、あくまで大人として挨拶しました。それ以上のことは何も言わず、そのまま叔母が指差して教えてくれた祖父の部屋に入りました。

「おぉ、よく来てくれたな」

ベッドに腰を掛けた祖父の姿を見た瞬間、なぜか涙が止まらなくなりました。

「元気そうで…… 良かった……」

祖父にはずいぶんと悩まされましたし、憎んだこともありました。それでもやはり、自分の家族なのだと感じました。実はこの1年ちょっと前に母方の祖父を亡くしていたこともあり、“おじいちゃん”という存在の尊さをより感じられました。

「ばあちゃん、変わってしまっただろ?」

「うん……」

「よく来てくれたなぁ……」

「うん……」

祖父も泣いていました。

このとき、泣いているボクたちを見た父が、何か茶化すようなことを言ってきてイラッとしたのですが、無視。この状況で茶々を入れる父に失望しました。

気を取り直して。祖父と話しているうちに、さまざまなことが明らかになりました。なんと、1年ほど前に家のなかで転倒して骨折し、しばらく入院していたというのです。そして今は、歩行器を使って移動しているとのこと。更には週に2回、デイサービスに通っていることも明らかになりました。

祖母が家のトイレで転んで骨折したと聞いてショックだったのに、まさか祖父までも……。一体、この家の介護はどうなっているのでしょうか。

途中で祖父がトイレに立ったものの、伯母たちはおしゃべりに夢中、父は黙って新聞を読んでいて、誰も祖父に気が付きませんでした。もしかしたら気が付いていたのかもしれませんが、それでも声をかけるなり、付き添おうとするなり、何らかのアクションがあっても良いと思うのですが……。

以前の家で、介護を代わると言いつつ、祖母がトイレに立ったことにも気づかずにおしゃべりを続けていた伯母たちの記憶がよみがえりました。

これでは祖父母が転んで骨折するのも当然です。おまけに廊下には絨毯が敷いてあり、これで足の悪い老人が転ばないわけがありません。むしろ「どうぞ、転んでください!」と言っているようなものです。

結局、トイレにはボクが付き添いました。

その後、祖父はなかなかトイレから戻りませんでした。心配になって声をかけましたが、なかからは「大丈夫」という返事。しかし実際は、トイレに失敗していました。

祖父の身体が衰えていたことにショックを受けました。けれど、90歳を超えても寝たきりでなく、タバコを吸い、頭も年齢の割にはしっかりしているのだから、すごいことです。

伯母が祖父の着替えを手伝っている間、ボクはリビングで立って待っていたのですが、そこに父が言いました。「座ったら?」と。

これにもちょっと頭にきましたね。自分の生家を売ったお金で買ったソファーや椅子に座りたいわけがありません。

着替え終わった祖父は、ボクを部屋に呼んで小声で話し始めました。

「この家にあるもの、ほとんどは俺の物なんだよ」

「そうなの?」

「横浜の家を売って、その金でここの土地と家を買ったけど、それでも金が余ったから、家具をほとんど新調したんだよ。前の家から持ってきたものは3つくらいしかないよ」

「お金を潔く使うのは良いことだけど、賢く使わなきゃダメだよ」

「うん、そうだなぁ」

新しい家具や最新の家電が揃っている理由がわかりました。なんと、風呂場にはテレビまで付いているそうです。

ボクも小声で話しかけました。

「この家にいるのがおじいちゃんだけだったら、もっと会いに来たいけど……」

「んん、そうだろうなぁ」

「お母さんも同じ気持ちだよ」

「あぁ、そうかぁ」

今回はっきりしたことは、やはり伯母の介護は杜撰だったことです。

母には散々「祖父母から目を離すな」「何かあったらどうするの!?」と言っておいて、自分は2人を家のなかで転ばせて骨折させ、入院させていたのですから……。

▼祖父母の最期

それから1年11ヶ月後、祖父がこの世を去りました。

父から連絡をもらったのですが、通夜と告別式の日時が不明瞭で、ボクも母も振り回されました。その混乱で通夜には出られませんでしたが、告別式には参列しました。

ボクは2度目、母は初めて、千葉の伏魔殿を訪れました。

周りの親族に話を聞くと、祖父は亡くなるずっと前から病院にいたそうです。意識はほとんどなかったものの、みんな祖父の状態を知っていて、何度かお見舞いに行っていたとのこと。

それを知らなかったのは、ボクと母だけ……。

祖父の告別式のあと、母の要望で、祖母のいる介護老人保健施設に向かいました。

この日、祖母は4人部屋の自分のベッドに横になっていました。喉が渇いているのか、時折口をもごもごさせていました。祖母は胃ろう状態で、見ていてつらいものがありました。

※胃ろうとは、チューブで体内に直接栄養を取り入れる処置です。

母が「お義母さん、来たよ!」と声を掛けても、祖母は反応しません。拳を固く握って、時折「いーでぇーいーうー」という言葉にならない声を発していました。

決まって「いーでぇーいーうー」と発音していたので、何か意味のある言葉だと思うのですが、ボクはこれが「ひーどーいーよー」に聞こえてしまいました……。

「お義母さん、ゴメンね。約束したのに。最期まで面倒看るって……」

祖母の手をさすりながら、母は何度も話しかけていました。

祖母はまだ元気なときに「わけがわからない状態になってまで、生きていたくない」と言っていました。

それから11か月後、祖母は旅立ちました。

▼墓前での決意

祖父の一周忌と祖母の納骨が営まれるため、父方親族が集まりました。

つつがなく一連の仏事を終えたあとは、お寺に併設されている建物で仕出し弁当を食べました。上座には祖父母の遺影が並んでおり、通夜と告別式に参列できなかったボクは、このときじっくりと祖母の顔を見ました。

祖母の遺影は良くできた合成写真で、最近の技術はすごいと思う一方、ちょっと悲しくなりました。

母が突然泣き崩れたのは、そんなときでした。

「どうして、どうして、こんなことに……。最期まで看るって約束したのに……」

ボクの腕を掴んで嘆く母に、どんな言葉をかけるべきなのか……。何も言えず、ただ母に手を添えることしかできませんでした。気を緩めれば、ボクも泣きそうだったのです。

そのあと、まだ泣いている母を連れてお墓へ行き、改めて手を合わせました。

「泣いていたら、おばあちゃんも安心して向こうに行けないよ。おばあちゃん、心配性だから……」

「そうだね……」

ボクは、自身の体験を何らかのカタチで社会の役に立たせようと墓前で決意しました。


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