責任のパラドックス

・はじめに
責任というものがある。何かはよく分からない。だが誰かに帰属させられるものであるらしい。その誰かを責任主体という。ある結果を原因として引き起こし、そのために道徳的な価値を帰属させられることが可能な、個人ないし集団である。
そこにおいて人間は、自由意志、つまり世界の発生に始まる因果連鎖の玉突き事故から外れた、絶対的な因果の始点として扱われている。そのような自由意志の概念が社会規範に拡張されることで、因果連鎖の遡行が停止して道徳的な価値が発生するような、凡庸な「第一原因」としての主体ーー個人という観念が、現代にも広く信じられている。
しかし他方で、物理主義的立場から考えれば、あまねく人間は単なる自然環境の一部であって、外部入力に反応して特定の動作をするように設計された有機的な装置でしかないようにも思われるのだ。
前者の立場を、主体を世界の最も基礎的な存在のように見なしていることから、主体の原子主義と呼ぶことにする。後者は、主体を因果連鎖を取り持つものとして捉えることから、主体の媒体主義と呼ぼう。
これら二つの相剋が社会に歪みをもたらすのだ、と言いたいだけの陳腐な文章が、この下の方に続いてる黒いグジャグジャです。

・主体の喪失
因果連鎖の始点としての個人という原子主義的な考え、それを我々は受け入れているのかというと、案外そうでもないように見える。近年、とにかく責任を個人に帰属しようとする立場(いわゆる自己責任論)が人気を失い、むしろ責任を個人より前の段階で問おうとする立場が流行しているからである。
たとえば「親ガチャ」とか「上級国民」とかいうバズワードは、生物学的事実や社会システムに規定された個人の自由の限界を強調していると言えるだろう。端的に言えば、個人は全体の構造の一部であるから、自由だ何だと言ってもその仕組みから飛び出せはしない、という感覚が表現されているのである。
くわえて、ディープラーニングを利用した個人追跡型広告に包囲されているわれわれは、商取引ばかりか、取得する情報すら、外的な操作に支配されている。なるほど選択の自由がないわけではない。AIが見せようと思わないものも、見ようとすれば見られるからだ。だがそんなものは普通見ようとしない。だからこそ、わざわざ個人の嗜好を予測した上で、それに適うような広告・商品・動画を目に触れさせることが、経済合理的なのである。
このような現状から言えば、個人を絶対的な原子的主体とみなすのは無理である、という事実が自然と認識されることなのではないか。

・責任のパラドックス
だがしかし、一般大衆とは往々にして致命的な論理矛盾を抱えているもので、どういうわけか個人の責任を絶対化するような考え方も同時に蔓延っているのもまた事実である。
SNSで「炎上」が起こされたとき、炎上の客体がどのような言葉で大衆に責められるかを思い出そう。「まあまあ、しょうがないところもあるから、もう許してあげましょうよ」と書き込んで赦免が為されるケースは皆無である。そんなことを言ったらその人にも放火がされることになる。そこでは因果の遡行が特定の個人でぴったり停止してしまうし、下手をすればそのまま一生責任を問い続けようとする奴が現れる始末なのである。
子供の頃のイジメが発覚して公的な仕事から下ろされたミュージシャンはそのことの優れた説明になる。健全な社会では、子供は責任主体としての主体性を小さく見積もられるべきである。つまり、因果のスタート地点ではなく、外部環境のみに依存して非自律的に意思決定をしてしまうような媒体、一種の「自然現象」として扱われるべきということだ。自由意志にではなく、環境によって行動が決定されるということは、因果の遡行がその個人で止まらず、さらに前の段階、すなわち環境まで遡ることを意味する。だから事実として子供は責任を問われにくく、家庭や学校などの環境に帰責が行われるわけである。それが常識的かつ実践的にも適切な態度であろう。だが彼の場合はそうではなかった。あたかも小学生の頃から責任能力のある主体だったかのようにみなされている。究極の原子主義的自己責任論である。
もちろん「被害者の心の傷が云々」などというのは何の弁解にもならない。責任の大きさではなく責任の問われ方の話なのだし、他人に被害者の心中を代弁する権利はないし、そもそも人を傷付けた主体は傷付かなければならないという道徳規則じたい正当化が困難である。
小学生にも成人と同様の責任能力を認めるべきだと考えるのでない限り(その場合、当然ながら少年法は撤廃され、性交同意年齢も6歳まで引き下がるだろう)、小児の犯罪は抑止されるべきものであって、たとえ成人してからであろうと、成人が犯した罪と同様に裁かれるものではない。

・媒体主義の採用
このような現状認識を承前として、責任主体性に関する矛盾した立場が同時に存在すると言うことができる。媒体主義は個人を環境の一部として理解し、他方、原子主義は個人を絶対不変の責任主体、「一(いち)なるもの」と描写する。
この矛盾に対する一つの解決は、責任主体性が環境によって動揺しうることを示すような主体観を描くことである。どうすればよいか。
私の提案は、次のようになる。まず、個人を世界のダイナミズムの一部と考える媒体主義的立場から始めることだ。というのも、何よりその立場は、一面においては事実である※。原子主義が抱える、負えるはずもない無限の責任を個人に帰属させる不合理を避ける可能性も含んでいる。
(※自由や主体性については、多くの哲学的立場が存在する。そのため、自由意志を無と断ずる媒体主義を問題に感じる向きもあるかもしれない。しかし、Googleに操作されてしまう自由意志などどうせ無くもがなのものであるから、そんなに気にしなくてよいだろう。)
したがって、第一に、全ての個人は例外なく、森羅万象によって構成される有機体の一部であると言える。あらゆる行為、あらゆる共同体、あらゆる利害がこの中に包摂されている。この内部では因果の循環に破れ(つまり原子主義的主体)が存在しない。したがって、外部から断絶された個人がその断絶性(つまり自由)に沿って、道徳の名の下に加害を受けることは、端的に不当となる。

・次回予告
かくして媒体主義を採ることが決定された。しかし、主体に責任を負わせる必要があることは、他方で認めざるを得ない事実である。しからば、次には責任概念を適切に定式化して、責任をお題目に主体を全面的な責めに追い込む動機を解消しよう。この課題には、意志や価値観と無関係に道徳を語ることができる原理である、功利主義が重要な役割を果たすだろう。
ただ、文字量の関係上、それは別なる文章に記述することにしよう。「道徳の分配的解釈」に続く(予定)。

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