聖なる性夜、性なる聖夜

クリスマスの夜にセックスするのは罪ではない。いや快楽はむしろ善でさえありうる。満たされた腹を撫でながらイルミネーションを眺める。暖房が効きすぎた部屋で汗ばんだセーターを脱ぐ。予定調和を誤魔化すように身体を重ねる。

こうした一連の性行為を非モテは憎むだろう。想い人の濃厚接触を想像して胸に穴を穿たれる想いでいる。自慰をしようとして厭になってやめる。ネットでくそ面白くもないアンチ・クリスマスのミームに埋没してみる。
ここまでは結構なことである。

話が変わってくるのはこういうときだ。
カップルが夢心地でこんなことを思う。「輝く雪と鈴の音は、私たちの聖なる愛を祝福しているのだ」。あるいは「恋人は幸せを運んでくるサンタクロースだ」。
または非モテが妬んでこんなことを言う。「クリスマスは聖なる夜であるというのに、日本ではそれがセックスの口実に使われるばかりで、いわば「性なる夜」と化している。これはおかしい」。

これらの思想は間違っている。愚かな自己陶酔と惨めな僻みだからではない。結論から言えば、宗教的信念を善とみなし、くわえて性欲を悪と断じてさえいるから、間違いなのである。

なぜこんなことになってしまうのか。
思うに非モテの違和感は正鵠を射ている。クリスマスソングに自己投影して性欲を神聖さで覆わんとするのは確かにおかしい。歪みはそこにある。だがそれは、「崇めるべき聖」を「蔑むべき性」によって冒しているから、では決してない。

・聖なる"性"
一つ目の間違いは、宗教的神聖性の欺瞞にもとづく。
それならお前は、キリスト教が欺瞞だとでもいうのか。その通り欺瞞である。単なるウソを普及させ、弱者を強者と偽り、支配のために人々の自己を抑圧させる宗教体系が欺瞞でなかろうはずもない。利益のために虚言を弄する詐欺師と同様である。

現代では幸いにも、リベラルな啓蒙の理念が一般化したために、"聖書"の教えが社会不適合なドグマへと堕落するさまは如何とも隠しがたい。かれらの教義は、文化相対主義によって展望なきまま延命されている、寝たきりの老人に等しい。
ところが、その老人は無害ではない。その身体からは絶えず糞尿が漏れ出て、はるか極東のわが国にまでその腐臭が及んでいるのである。クリスマス・イデオロギーはその一例にすぎない。

一つの命題は、つまりこういうことである。死すべきキリスト教を、崇敬されるべきものとして扱うべきではない。それはいやらしいもの、罪なるもの、恥ずべきものとして(宗教保守が攻撃するところ)の、"性"と認識すべきである。

性なる聖
二つ目の問題は、性欲の抑圧にもとづく。
保守的イデオロギーによる抑圧的な性規範は、未だにこの社会を蝕んでいる※。しかし考えてもみよ。自らの平素の営みを恥ずべきものと評価するのは、明らかに歪んでいるのではないだろうか。
(※左派イデオロギーによる性規範もまた存在する。だがそれについては、ここでは扱わない。)

しかし、自由主義的リベラリズムによって、そうした非難は不当なものとなった。セックスは加害ではない。ゆえに悪ではない。合意形成ができる限り、誰が誰といつ営んでも、責められる謂れはないのだ!

したがって、二つ目の命題は次のようになる。われわれの性欲を、不浄なものとして扱うべきではない。それは生来の人間本性、快楽の源泉、不可侵の権利、としての尊い「聖」と認識すべきである。

・反クリスマスのために
上述されたような輝かしい自由と啓蒙の理念は、悲しいかな、必ずしも受容されているとは限らない。性行為を宗教的モチーフで隠蔽しようとする文化の存在は、その証左である。それは己の性欲を宗教的"聖"によって塗り潰そうとする試みであり、反自由主義的保守主義への迎合である。

そんなのはゲスの勘繰りだ、結論ありきの暴論だ、と思うかもしれない。だがそうだろうか。なぜセックスをセックスとして、欲望を欲望として、寿ぐことができないのだろう。性を恥じるのは自由なのだが、しかしなぜ宗教的欺瞞があれば恥ずかしくないと思うのだろうか。
こうした精神性には、やはり宗教保守が潜んでいる。それはやがて抑圧と自己否定に結実する、有毒の寄生虫なのだ。

結論はこうである。
クリスマスをやめろ!

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