多様性を守ろう!だが促進はするな

多様性は社会の目的ではない。

わざわざ説明するまでもないと思うが一応確認しておこう。強姦の常習犯がいる世界と、そういう人がいない世界を比べるとする。代わりに全盲者や筋萎縮性側索硬化症(ALS)の人間でもいい。前者の世界は後者より多様性に富む。仮に多様性を善とするならば、前者が後者よりも善いことになる。しかしそのような道徳は存在意義が不明である。ゆえに多様性は目的でない。

多様な人がいることは、もっぱら不愉快なことである。なぜなら、われわれには他者に対する好き嫌いが存在するからだ。「多様性それ自体が好き」という人間が絶対いないとまでは言えないが、全盲者が居ることをも多様性に資する限りで喜ぶ者は、少なくとも多数派ではない。

それでは、「私はいろんな国籍・人種・性的志向の友達と仲良くしています!多様性大好き!」みたいな人間は何なのか。自分が好いているのは高度な同質性の中での友達付き合いであって多様性ではないことに気付いていない者でしかない。
「多様性には悪人は含まれない」という反論は可能だろうか。不可能である。「多様性」という語にはそれが含む性質についての規定がない。色々あるためには、あるだけでよいのである。
「悪い奴以外の多様性が大事だと言いたいんだ」という抗弁も、おそらく無駄に終わる。まず誰が悪人か決めることは(特にこの手の人々には)容易でない。次に、前述の通り、多様性の最大化は圧倒的に不幸な人間をも必要とする。
「そんな極論ではなく、多様な幸せのありかたを大切にしようと言っているんだ」とか何とか言ってしまえば、もはや多様性は何ら重要でないことが自白されたのも同然である。それなら幸せであればよいのであって、多様かどうかなどどうでもよい。すでに幸せな人々に「多様性」を要求するなど、余計なお世話でしかない。

多様性という概念に価値があるとすれば、それは「自由の帰結としての多様性」であるときに限る。人は生まれながら多様であってしまうので、自由な社会ではどうしても色々な人がいてしまう。人間はステレオタイプに自らを寄せるよう努力するのだが、それもたかが知れている。結果多様になる。
「自由であれば多様である」という文が正しいなら、「多様でなければ自由でない」という文も正しい。したがって、自由に価値がある限り、多様性を侵害してはならないと言える。
自由に価値はあるのか。問いがそこまで行くと話が広がりすぎてよく分からないので、とりあえず価値があるとしておこう。

ところで、最大の自由は最大の多様を意味しない。「必ずしも」意味しないだけではない。「必ず」意味しないのである。
これまた自明な話で、最大限に多様な社会は最大限に抑圧的な人を含むからである。これが極端な屁理屈に見える者は、「多様性」からイスラム原理主義者を排除する正当性を考えてみればよい。当然そんなものはなく、女は布を被せられ仏像は爆破されることになる。
だが、この事実にも拘らず「多様性」の理想を標榜することを止めないためには、何らかの工夫が必要だろう。なぜなら、そこで明らかにされたことは、「嫌なやつら」の存在による多様性の脆弱性であり、それを隠蔽しなければ理想化は不可能だからだ。
そのために要求される工作は何か。「多様性」がそもそも「やつら」を含まないと主張することだ。上で述べたが、本来そんなことは不可能である。だが、「やつら」が社会の構成員としての資格を持たないことを主張することにより、「多様性」の教義を護るという方法はある。このような営みは一般に差別と呼ばれている。多様性主義は差別を必要とするのである。
イスラム原理主義者を差別して何が悪い、という開き直りは正当かもしれない。だがそこまで行かなくとも、自由主義に反対する傾向のある人は無数にいる。それらをみな被差別民と見なしたとき、その外部でのみ意味を持つ「多様性」の妥当性が疑われるのは必至だろう。

したがって結論はこうだ。
多様性の擁護は自由のために必要である。だから多様性を守ろう!
しかし自由ではなく多様性の促進それ自体を目的とすることは害悪である。だから促進はするな!

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