遊牧天皇の誕生

歴代の天皇のうち、遊牧民族を出自に持つ天皇を農耕民族の天皇から区別して「遊牧天皇」と呼び、これは全体の約1割を占める。しかし、その影響力にもかかわらず、我が国の歴史教育においては遊牧民族の軽視が甚だしい。通俗的な認識とは異なり、日本遊牧民は独自の文化を持たなかったわけでも、野蛮な破壊者でしかなかったわけでもない。かれらは倭人と同様、大陸を模倣しつつも独自の社会を発展させており、現代日本にもその伝統を遺しているのである。

とはいえ、日本の遊牧民は長らく関東地方に留まり、その影響力が倭国に比べて限定的であったことは事実である。関東ステップを駆けた遊牧民は、いかにして日本列島の支配者たりえたのか。その端緒を、8世紀末に遡って紐解こう。

1.ガンブの台頭

・関東ステップ世界

紀元前から8世紀までの間、関東のステップ地帯は大小の遊牧集団がひしめく地であった。かれらは倭人と同系であるとも、大陸から渡来したモンゴルあるいはツングース系民族であるとも言われる。いずれにせよ、近畿を政治的中枢としていた倭人たちは、本州を横切ってそびえる富士山脈の西側から、かれらを「匈奴」(古代モンゴリアの遊牧民国家)あるいは「東夷」と呼んで軽蔑した。遠方を「とおい」と言うのはこれに由来する。

耕作を主とし、集権的な王権を確立した西方倭人世界に対し、「匈奴」たちは長らく強力な政治権力を確立できずにいた。比較的小規模な血縁集団の利益を最大化するため、戦争といえば支配ではなく収奪を目的としたものばかりであった。

関東の経済状況は、周辺地域の肥沃さに助けられて悪くなかった。だが遊牧民族自身の生産力は貧弱であったから、経済は富士山麓の農耕民や北方の狩猟民族(エミシ)に深く依存し、他地域の政情や天候に大きく左右された。他民族との交易や収奪、奴隷化に成功した豊かな時期に大きく増加した人口は、かれらの抵抗に遭うとたちまち困窮に見舞われたのである。

・日本のカガン

781年、そんな関東世界において、モンゴル高原の権威に与ろうと「カガン(可汗)」を号した指導者がいた。名をガンブといい、10万人規模の巨大な遊牧集団の長であった。

ガンブは737年に職人の家に生まれ、西部の大勢力であるウルガン氏に仕えて育った。彼は実弟のスドゥと共に戦場で名を馳せ、20代のうちにウルガン氏長の護衛などを務めたのち、上級の士官に任じられた。その後も活躍を重ね、ついには氏長からウルガンの一門として認められるまでになる。血縁に基づく集団意識が希薄化したこの時期にあっても、これは異例であった。

転機となったのは、770年頃に起きたとされる、ウラド(烏蘭土)の戦いであった。これは、大規模に膨れ上がった2つの氏族同盟が、それぞれ数万におよぶ軍を衝突させた大合戦である。戦場に選ばれた関東最西部のウラドは、大氏族エベクのティンキ(宮殿と城砦を兼ねた氏長の住居)が建つ地であった。

ウルガン氏はエベク氏との同盟を遵守して参戦し、すでに稀代の勇士としてその名を轟かせていたガンブも、約500騎を率いて出撃した。ところが、この戦いには関東世界で初めて騎兵用の連弩が大量投入され、戦場は空前絶後の苛烈さを呈することになる。矢毒は何千もの人馬を続々と絶命させ、ガンブも多くの戦功を挙げながら配下の過半数を失った。そして同時に、ウルガン氏族の軍団は氏長を筆頭に大半が戦死、壊滅した。

結果、戦いはエベク氏陣営の辛勝に終わる。ウルガン氏が中心を失って混乱するなか、大会戦の英雄であるガンブに衆目が集まるのは必然であった。職人の出とはいえ、彼は既に正式なウルガンの一族であったし、この時期の関東民は何より実力の論理を重視したのである。こうしてガンブは、関東有数の大氏族の長へと一気に上り詰めることになった。

・氏長からカガンへ

氏長となったガンブは、配下の戦士や、彼を崇拝する武闘派の氏族などを支持基盤として、1年以内に体制を安定化させた。その後は勢力拡大に動き出し、たちまちのうちにウルガン族の勢力規模は数倍に成長する。彼は氏長となった以後も幾度となく戦場を駆け、伝統ある有力氏族を次々に撃破、併呑した。その猛烈な征服業は海を越えて大陸にも伝わるほどであり、ガンブは名実ともに関東の覇者となった。

遊牧氏族として類例を見ない人員を擁するようになったウルガン氏だったが、勢力が拡大していくにつれ、既存の権力構造には軋みが生じていた。それは、ウルガン氏族と他氏族の間、征服された伝統的有力氏族と譜代の新興氏族の間、軍務を担う氏族の戦士と政務を担う平民出身の官僚の間で起こった。

こうした体制の矛盾は難題であった。ガンブは平民から成り上がった実力主義の象徴であったが、反面、その権力は依然としてウルガン氏の名望に支えられるものであった。彼の二つの顔に沿って支持者も二分されており、求められる指導者像もまた分裂していたのである。

カガンに即位するというアイディアは、この行き詰まりに対する奇手であった。それは新旧の有力者の対立を抑えるためでもあり、権力確立以来進められていた集権化の努力の一環でもあった。ここでいう「カガン」は関東遊牧民の最高権力者を意味したため、これがウルガン氏に依存しない権威に成長することが期待されたのである。

781年の即位は、征服業が次々に成功を収めた祝祭的雰囲気の中で行われ、目立った抵抗も受けなかった。ガンブは夜宴にて、曲刀が立ち並ぶ武器掛けを背に短い演説を行い、ハバイ(宰相)の宣言のもと鹿毛の兜を被せられたと伝えられる。倭人によるこの記述は、モンゴル由来のカガン位が導入された一方で、関東の伝統的な儀礼様式は維持されていたことを示す。

日本初のカガンは、こうして生まれた。初めこそ関東遊牧民秩序の延長にすぎず、名目的であったカガン位は、最終的に日本の東西を呑み込んだ巨大な権力構造へと成長する。その次なる一歩である西方世界の征服は、即位を寿ぐ臣下を見つめるガンブの中で、既に準備されていた。

・何がカガンを生んだのか

実のところ、関東に唯一の権力を樹立する試みは初めてのことではなかった。倭人側の記録によれば、関東の遊牧民には幾度となく群を抜いた有力者が現れ、主導的な地位を手にしている。しかしそのいずれも、従属氏族の統制がままならず、対等な同盟関係に転落するか、内紛により崩壊するなどして、短命に終わっている。

ガンブの成功は、彼個人の軍事的才覚やカリスマだけに起因したのではない。ひとつには、750年代の日本、特に関西地方以西に、猛烈な干魃による凶作が続いたことがある。これを逃れて、多くの農民が東方へと移住し、また商人も山脈の東側に機会を見出した。流入した倭人世界の財は、農村共同体や、西側と親密な遊牧民族に届き、最後にはそれらを征服したガンブの独占するところとなったのである。

また別の要因として、760〜80年にかけての関東全域で、遊牧集団どうしの抗争が激化したことが挙げられる。これは、ガンブがその戦才を活かす土壌となっただけでなく、有力者の相次ぐ戦死によって氏族の紐帯を破壊し、血縁に基づく氏族共同体への信頼が失われることを帰結した。単なる家父長ではない「カガン」権力の成立は、関東ステップ世界の構造的変容と不可分だったのである。

2.国家の確立

・匈奴から京国へ

785年の記録では、カガン国の版図は関東の全土を呑み込み、富士山脈のふもとにまで広がったという。それまでは関西の刺激を慎重に避けてきたガンブは、関東の平定を果たすとすかさず対外政策を積極化させた。山脈を越え、平城から遷都したばかりの長岡を征服する意図を公式に表明したのは、この時期であった。

このとき、正式な国号が「京」と初めて定められたことも、外界に向けたアピールであったと考えてよい。これは関東遊牧民が自他共に呼称していた「匈奴」という呼び名から、侮蔑的なニュアンスを取り除き、至高の権力者とその居場所を表す京の字を当てたものである。同時に、倭人征服後を見据え、権力の正統性を示す意図があったと考えられている。

こうした名目上の変化の背後で、京国の成立は、ガンブを中心とする二重の権力構造の並立を意味した。すなわち、ウルガン氏族という旧来の氏族権力、そして京国という新たな国家機構である。氏族たちは徴税をはじめとして平民の支配権を維持したが、司法権は京国の法務官僚に委ねられ、交易その他の経済活動にも国家は強い裁量権を得た。カガン直属の官僚機構が氏族権力から独立した機能を持つことで、ガンブの統治は次第に専制的性格を帯びるようになる。

・軍制改革

続いて着手されたのは、軍制改革である。弱体化したとはいえ、兵を供出・指揮する単位は依然として氏族であり、かれらの独立志向に反して階層的な指揮系統を構築するのは困難であった。軍事組織はそのまま生活の単位、かつ政治機構でもあったから、たとえ規模の小さい氏族であっても有力者の指揮下に入ることには強い抵抗があったのである。

しかし、各部隊が不揃いで高い独立性を持つこのような軍の編成は、遊牧生活には向いていても、大規模で規律的な行軍や合戦にはおよそ不向きな代物であった。厳しい山脈越えを果たして倭国を征伐するために、改革は急務だったのである。

そこで彼は、まず全軍を4つの「師」に分け、1つを自らが率い、他の3師には師長としてウルガン氏族を当てた。続いて、最も強大な4氏族がそれぞれの師に、その他の氏族も兵数が均等になるよう割り振られた。それぞれの師は10〜20ほどの「旅」によって編成され、各旅の氏長の中から選抜された旅長が補給任務を担当した。

公式には、カガンの氏族たるウルガン氏が師長として、各氏族を水平的に指揮することになっていた。ただ実際には、旅長に物資の管理権を委ねることで事実上の現場指揮官とし、旅を戦術単位とした軍を編成することが、ガンブの意図だったと考えられる。

3.「西征倭国」

・富士越え

791年3月、ガンブは長男へゼンに関東を任せ、「四師四十旅」を率いて長岡へと出発した。一旅が千騎を擁したとする説によれば、この軍勢の兵力は4万騎に及び、追随する遊牧集団も含めて10〜15万人が移動したことになる。当時の人口規模を考慮すると、これは単なる軍事遠征ではなく、民族移動のような性格を持っていた。

富士山脈に到着した京軍は、4師に分かれて山越えを始めた。行路には諸説あるが、補給のために集落の多い地域を選んだことは間違いないようである。この後に山脈を通った商家は、「人は絶え、牛馬は奪われ、村は荒野と化している」と、凄惨な行軍の帰結を記している。

また、次のような伝説がある。
入山から1週間後、ガンブの率いる師は富士山中で迷い、倭人の案内人は馬と食糧を盗んで逃げ去ってしまった。病や飢餓が蔓延して途方に暮れるかれらの前に、不思議な老人が現れ、いくつかの問答をする。兵士はみなその話術にやりこめられてしまったが、ガンブが言葉巧みに彼を言い負かすと、老人は感心したように笑って消え去った。すると、ガンブたちの前に一筋の道が開け、かれらは無事に山脈を渡ることができた。

老人と兵士の問答の内容にはバリエーションがあるが、概ねこのような話が京国の版図であった地域に広く伝わっている。謎の老人とは実のところ倭人世界の神であり、彼がガンブの才覚を認めて西国の支配者たる資格を彼に与えた、という筋書きである。

山脈越えは、周到な準備と献身的な倭人案内人の奏功で順調に進んだと思われるが、それでも死者や脱走者は数多く発生した。後代に創作されたこの伝説は、京の民にとっての富士越えが、自然をも含めた倭人世界の征服を象徴する、ある種の民族的な試練として認識されていたことを示している。

・長岡の征服

京軍の4師は1ヶ月かけて山脈を越え、5月には近江で集結した。そこで2〜3週間ほど準備を整えたのち、長岡への進軍が始まった。その勢いはまさに破竹であり、あらゆる防衛施設が瞬く間に踏破され、野戦をすれば兵はことごとく殲滅された。長岡が万を超す軍勢に包囲されたのは、6月のはじめであった。

ガンブは、天皇の身柄引き渡しを条件に、降伏勧告を行った。これに対して、時の宝智天皇は応じなかったとも、応じたものの使者の態度がカガンの怒りを買ったとも言われる。いずれにせよ交渉は決裂し、長岡は突入した京軍に蹂躙されて1日のうちに廃墟と化した。宮城とて例外ではなく、公家が次々に虐殺・拉致されるなか、宝智天皇は自決した。

こうしてガンブは朝廷権力を滅ぼしたが、それは彼が西国の支配者であることを意味しなかった。天皇ごと皇都を滅ぼしたのも災いして、彼を新たな支配者とみなす倭人などどこにもいなかったからである。宝智の遺児を担いだ豪族が来襲する恐れなどもあり、カガンは根本的な方針の転換に迫られた。

・平安京と再びの即位

被征服民である倭人がカガンの威光に屈さないのを見て、ガンブは反対意見を顧みることなく、京国の倭化を独断した。

第一に律令制の導入が行われた。長岡から連行した公家を登用して、支配体制を以前と同様に回復するよう注力したのである。さらに、税の大幅な減免もあり、京の支配は次第に畿内の倭人に受容され始める。予め西国における略奪が禁じられていたことも、これに寄与したと思われる。

制度改革がひと段落すると、新都の建設が準備された。カガンのオルドが置かれていた山城が立地として決まったが、当地の開拓と人夫の徴集に手間取った。建設が本格化する頃には京の支配は既成事実化しており、少なくとも関西・東海地方全域が掌握されていたと考えられる。

そして794年、新都が創建する。完成した都は倭人にならって唐式の建築であり、国号を取って「平安京」と名付けられた(ゆえに平安以前の宮都の名に「京」をつけて呼ぶ風習は、歴史的に誤りである)。伝統的には、これ以降を「平安時代」とする時代区分が用いられるが、現代では長岡が滅ぼされた791年をその始まりとするのが定説である。

新都が完成すると、ガンブはすぐさま平安京に入り、純白の装束に身を包んで即位式を行った。ここに、史上初めて遊牧民出身の天皇が誕生した。天皇位とカガン位の兼任によって、初めて山脈の東西が一つの権力のもと統一されたのである。

4.その後

これまで見たように、ガンブの征服業は、結果的に類稀なる成功を遂げた。平民出の男が遊牧氏族の長に抜擢され、瞬く間にカガン位、皇位を手中に収めたことは、歴史上に類を見ない大出世と言ってよいだろう。

しかし、カガン=天皇としての彼の治世は安穏たるものではなかった。彼が危惧した皇位の奪還は起こらなかったが、倭人豪族との小競り合いが絶えず、また故地たる関東の制御も日に日に失われていった。宮廷内でも、皇太子であった実弟のスドゥを政変に関わった容疑で拘禁し死亡させるなど、悩みの種は尽きなかった。

ガンブは806年4月に崩御し、「桓武」の諡が与えられた。その遺骸は関東に帰ることなく、伏見に葬られたとされる。それからの京国は大きな動乱期を迎えることになるのだが、それはまた別の機会に譲ることにしよう。

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