現実

2023年、宇宙人が地球を征服した。
侵略は至って穏便なものだった。世界各国のあらゆる武器が未知のテクノロジーによって無効化され、人類は何の抵抗もできないまま、空の彼方から巨大な宇宙船が降下してくるのをなすがままにしていた。

史上最大のパニックに陥る人類を横目に、宇宙人は流暢な英語で世界に音声データを送った。大体このような感じのことを言った。

「地球の皆さん、こんにちは。我々は、皆さんがご存知ないはるか遠くの惑星から、研究のためにやって来ました。エヌ星人とお呼びください。

安心してください。あなたがたに対して、全く敵対心はありません。我々の星には、他星の生命体をむやみに殺めてはならないという法律があります。戦争などもってのほかです。

ただ、一つだけお願いがあります。どうしても、我々の研究を進めるために必要なことがあるのです。この用事が済めばすぐ地球を出ていきますし、研究の成果が出たら教授してさしあげます。

それは、一人だけ、たった一人だけ、人間の生命を奪わせて欲しい、ということなのです。どうか怖がらないで。予めランダムに対象を決定し、すでに人員を派遣しています。速やかに終わりますから、お願いです、抵抗しないでください」

これに対する人類の反応は微妙だった。
宇宙人が人間に殺害予告をしたのは、たしかに大変なショックだった。だが、世界人口は80億を数えたし、世界中で凄惨な武力紛争が起きていることを思えば、1人くらい別に何ということもないように思えたのである。

私がこの情報をネットで見たときも、大体同じような感想を抱いた。「80億分の1」をめぐって人々が楽しそうに恐慌する様子は滑稽だった。

そのとき、ノックが聞こえた。玄関を見やり返事をしようとした瞬間、当然のように扉が開いた。驚いて立ち上がると、作業服を着た男がひとりいた。彼はまっすぐ、呆然とした私に向かって歩み寄ってくる。気付けば扉は閉まりきっていた。

「××さん。弊星の全宇宙存在様態研究プログラムにおける被検体に、あなたが選ばれました。これは完全に無作為の抽——」

「待ってください、なんですか。強盗ですか。有り金全部、通帳も何でも渡しますから、どうか許してください」

「いえ、地球のあらゆるメディアでお伝えした通り、我々「エヌ星人」が調査研究の目的で行なっていることです。ですから——」

「いやいや、だとしたらおかしいでしょ。実験の対象は80億人に1人のはずだ。日本人の誰かが当たる確率でさえ2%未満なのに、よりによって、よりによって私が、ありえない」

「ご判断は理解できます。一定程度小さい数値とゼロの区別がつかないのは、人類一般に見られる傾向です。この認知バイアスは判断コストの削減に寄与しており、必ずしも愚劣さを意味するとは限りません。それでは——」

「待ってください、待ってください。ランダムに決めたんでしょ。誰でもいいんでしょ。じゃあ私じゃなくてもいいはずだ。私だけはやめてください。私だけは、私だけは、どうか……」

「××さん、それは全ての人間にとって同じことです。人間は誰もが死を恐れています。ですから大変申し訳ないのですが、たった1人だけ絶命していただくことにしたのです」

「みんなそうだとしても、なぜよりによって、どうして私が……」

「お伝えした通り、無作為の抽選によって決定しました。我々の研究目標に照らせば、ヒトなら誰でもよいので、皆同じです」

「そんなことで納得できると思いますか。私は、世界にたった一つの、かけがえのない私なんですよ。他の人が死んでも悲しいだけだけど、私が死んだら全てが、全てが終わってしまう」

「それは誰でも同じです。人類が一般的に採用する「意識」の概念に基づけば、誰しもが、自分しか感じることのできない、統合された知覚や感覚、思考や記憶の世界を持っていることになります。脳機能の停止に伴う「意識」の喪失を惜しく思うのは生物種の本能でしょうが、何にせよ、皆同じなのです」

「そうですよ。でも違う。死ぬのが同じこの××だったとしても、さっきからずっとテレビ観てる隣の田中さん、あっちの方が私だったら、何も文句は言いませんでしたよ。でも現実には、こいつが、××が、私なんですよ。私にとっては同じじゃない。大問題だ」

「日本語における一人称の文法に従えば、全ての人が「この私」と自らを指すことができます。ですから、それによって田中さんと××さんを区別することはできません。どちらも「私」ですから、どちらが「私」か、という問題は生じません」

「みんな「私」とは言えますよ。そして本当に彼が私だった可能性もあった。でも現実に、現に、今こうして実際に、本当に私なのは、こいつ1人なんですよ。今まさに死の恐怖を、リアルに、生々しく感じてるんだから。80億人もいる中からよりによってこの私が選ばれる、宇宙人にはこの理不尽さが分からないんですか」

「理不尽というのが無根拠という意味なら、理解できます。対象の決定は完全にランダムに行なわれましたから。

ですが「本当に私なのはこいつ1人」というのは理解できません。大気圏外から予め全個体の物理的組成を分析しましたが、あなただけが突出して異なる物理的特徴を持っているわけではありませんでした。仮に「わたし性」のようなものがあるとして、それを示すものはあなたのどの部位からも観測できません。

ゆえに、あなたは「本当に私である人」ではありません。重ねて申し上げますが、全ての人が自らを「私」と指すことができます。世界のどこにも、あなただけを「私」として特権化する証拠はないのです」

「でも、でも私だけは現実に私なんだ、私が今感じてるこの恐怖はお前にはない、お前らのどこにもない、ここにしか——」

エヌ星人は小さな機械をこちらに向けた。全身が硬直して喋れなくなったのはそのためだろう。彼はそれをしまうと、望遠鏡のような筒をどこからか取り出した。

「あなたは全人類から無作為に選ばれた絶命実験の対象です。それでは絶命プロトコルを開始します。動かないでください。5、4、」

彼が筒の先端をこちらに向け、トリガーに指を掛けるのが見えた。1を数えると同時にカチッ——











通知:
個体X-1を対象とした絶命実験は、実験機器の故障により失敗しました。星外生命調査研究法に基づき、ただちに再度の絶命実験を実施することが許可されました。

対象はあなたです。

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