ネクラテスの弁明

「うわっ、ちょっと、布団を剥がすのはやめたまえ、ペシミアス。わたしには、どうしてきみが来る日も来る日も他人の安眠を妨げるのかということが、本当に分からないよ。さらに分からないのは、その他人とはわたしであり、わたしとはこの低劣な無職の中年男性であるというのに、ペシミアス、なぜきみが毎朝の気持ちのよい貴重な時間を費やして、その男を起こしに来るのかということなのだがね」

「卑下しないでください、ネクラテス。アテーナーに祝福されたあなたの知性に比べればわたしなど、不具のスパルタ人と同等ですよ。さあ早く起きて、仕事に行きましょう」

「障害者差別はいただけないよ。それに、そうは言うがね、ペシミアス、依然わたしは少しも外に出る気がないんだ。そもそも、己の魂を気にかける者ならば、労働者であり続ける人生を甘受するのだろうか。それとも君は、この際限のない拡大再生産に与することが人間の徳だと、そう考えているのかね」

「ゼウスに誓って、あなたを侮辱するものではないと理解してほしいのですが、ネクラテス、あなたが気にかけているのはその魂ではなく、あのオヤジ臭い店長なのではありませんか」

「すぐ冷笑的になって話を逸らすのはきみの悪徳だが、それは一部認めるべきかもしれないね。彼の下で働くようになってから、ひとが大きな声を出すと身体が硬直するようになってしまった。それからペシミアス、きみは彼の年齢をよく馬鹿にするが、彼はわたしより年下だよ」

「はい。それはともかく、ネクラテス、勤勉さが重要な徳であることは、子供でも知っていますよ。あなたは誰よりも深く徳に関する事柄を考えておられるのに、それほど簡単な見落としをされたわけではないのでしょうが」

「勤勉さは確かに徳だよ、ペシミアス。しかし、きみはこのことに賛同するだろうか。すなわち、労働をする人は、皆一様に勤勉であるとは限らない、ということに」

「ゼウスに誓って、ネクラテス、当然その通りです。労働をする者の中にも、ペルシア人のような、職務を全うできない怠惰な人間が何人もいるのですから」

「排外主義もよくないが、ともかく、その点でわれわれは同意できたわけだね、ペシミアス。
しかし、きみは職務を全うできないのが怠惰だと言ったが、では次の点にも賛意を示すだろうか。かりに職務をよく果たしたとしても、やはり有徳とはいえないような仕事がある、ということについてだ」

「あなたの論法はいつも強力ですが、さすがのわたしも予測できるようになってきましたよ、ネクラテス。あなたは、コンビニの店員など取るに足らない仕事で、いくらやっても勤勉にはならない、だから自分は休んでもいいのだ、と言いたいのでしょう。
ええ、確かに、あれが下らない仕事であることには同意できます。しかし、たとえ賤業でも、懸命に勤めれば、その者は勤勉なのではありませんか?」

「待ってくれ、ペシミアス、議論を先取りするのは構わないが、わたしは自分の仕事が賤業だなんて言ったつもりはないよ。コンビニバイトは辛いものだが、社会的に重要な役割を担っているとわたしは思う。
それに、実のところ、職業に貴賤というものがあるのかどうか、わたしにはまだ十分な確信がないのだが、そうしたことはこのさい関係ないんだ。わたしが示すべきことは一つ、この社会において労働とは一般的に有徳ではないということなのだから」

「ああ、ネクラテス、単なるサボタージュのためにそこまで大きく出るとは思わなかった。恐れながら言わせていただきますが、その手の左翼的な現状否定は、全く短絡的で空虚なものに見えますよ」

「うん、わたしも大言壮語であることは知っているし、話をマルクス主義に丸投げしたいという誘惑に駆られながら、今こうして話しているのだがね。
しかしペシミアス、ともかく聞いてくれ。この社会が労働に付随させたままにしている歪み、たとえば、高い自殺率、ワーキングプア、経済格差や女性差別についてはどうだろう。われわれが労働を介して社会の構造に与することによってこれらの不正が維持されている、この事実だけでも、われわれが働くことは少なくとも美徳ではない、そうは言えないだろうかね、ペシミアス?」

「稀に見るほど自信に満ちた表情をされていますね、ネクラテス。女性差別などという欺瞞は置いておくとしても、いずれにせよ、自分でそのように問題提起するのならば、あなたはここでのんびりしているわけにもいかないのではありませんか。その不正とやらと戦うために、デモをしたり、共産党員になったり、ハフポストにでも就職すればいいでしょう」

「Twitterでインセルの友達ができてから、きみはやけに左派への当たりが強くなったね、ペシミアス。ところが、その予想に反して、わたしは左翼運動をしろと言っているのではないのだよ。というのも、左右両派のデモ隊の中にも、あらゆる政治組織やハフポストの中にも、依然として格差や差別が存在するだろうことは、言うまでもないからだ。すまないが、オルタナ右翼と仲良くなる自信はないけれどね、ペシミアス、しかしわたしは既存のあらゆる運動が解決の根本性、ラディカルさに欠けると思う」

「ラディカルさというと、何ですか。テロリストにでもなろうと思っていらっしゃるのですか」

「いや、わたしが考えるのはもっとラディカルな方策だよ。テロなどというのは、自分の主張を生命ごと清算してしまう行為であって、単なるやけくそにすぎない。
そこでだ、ペシミアス。何もしない、というのはどうだろう」

「はあ。テロが無駄だというのは薄々気づいていましたが、何もしないなどと仰られるとは。ネクラテス、一体それの何がラディカルなのですか。まるでニートが革命の最先鋒にいるかのような言い方をされると、身体がむず痒くなりますよ」

「いいや、まさにその通りだよ。何もしない、しかし、いやだからこそ生き続ける、これが最も根源的な変革なんだ。なにも、貧しい者にも働くのをやめろとは言わないよ。働かない余裕のある者だけでいい。
もし不満なら、少子高齢化の何が問題なのか考えてみたまえ。万人に等しく生きる権利が認められた現代、何も生産しない人間が増えれば増えるほど、共同体は困難を強いられる。そこでは、負債の清算たる死は迎合的であり、むしろ端的な生こそが革命的なのだよ」

「ふーん。ところで、何もしないことが"ラディカル"であるとしても、その先には何があるのですか、ネクラテス。ニートの増加によって社会が停滞し、システムが限界を迎えたあと、結局残るのは不幸な人々、あるいは今よりも不幸な人々なのではありませんか」

「そうかもしれない。しかし、そんなことは問題じゃないんだよ、ペシミアス」

「いいえ、ゼウスに誓って、大問題ですよ。社会正義に照らして、ニート生活を推奨する理由がなくてはいけないでしょう」

「復讐だよ」

「は?」

「いま、この時代、この国に住んでいる人間は、一体何を目指せばいいと思うかね」

「まあ、たしかに、何も信じられない時代ではあると思います。自分の将来は不透明、国家の先行きも真っ暗、そして女はわたしに股を開かないわけですから、死ぬまで孤独ですよ」

「こら、インセルの文法は本当に良くないよ。だがそうだね、性愛をはじめとして人間関係に希望が持てない、と言い換えれば、それは概ねその通りかもしれない。望むべき未来なんてどこにもない。社会を維持するような改革は全て無意味だ。怪しげなセミナーに騙されたり、神の死体を神輿に乗せて引き回したりしない限り、もう社会には何も無いんだよ」

「だから復讐すると?」

「社会が目指すべき善、いわば客観的な善が見当たらないいま、われわれは個人の快楽や欲望、いわば主観的な善だけを目指すフェーズに移ったんだ。それならば、この不快きわまる国家共同体への憎悪を、敵意を、もっとも致命的な形で爆発させればいい。それがまさに無職生活だ。簡単に言えば、もうやりたい放題なんだよ」

「それが「善」ですか?その復讐とやらが望ましいと言う根拠に、一体何があると言うのですか。ネクラテス、あなたの言うことは自爆テロと同じ、やけくそにしか思えません」

「ところが、そうじゃないんだよ。順を追って話そうか。
まず、われわれが社会の一員として目指すべきことは何もなくなった。これはいいね。ゆえに、何かを望めるとしたら、それは個人的なことでしかありえない。そうすると、各々個人が好き勝手やるというのでも良いのだが、もし何か方針を示すことができるなら、それはそれでいいだろう。
そこで、私が提案するのが、個人に仇なす社会システムに対する、復讐としてのニート生活だ。こう説明するとどうかね、ペシミアス」

「いつものようにあなたに騙されたくないという思いが邪魔をするのか、まだ納得には遠いようです。お聞きしますが、「好き勝手」やるのでもいいならば、たとえばテロや犯罪ではいけないのですか」

「ペシミアス、わたしは君のその批判的な理性を本当に尊敬しているよ。わたしもそれにしっかりと応えなければならないね。
いいかね、国家権力に反抗するということは、かれらに弾圧を正当化させてしまうということだ。高齢化の話を思い出したまえ。労働不適格の高齢者を、適当に作った刑務所に雑然としまっておけるなら、国家にとってそんなに楽なことはないだろう。
だから、わたしの主旨はこうだ。社会の外部に投棄されることなく、内部から社会を破綻させよ」

「なんというか、こう……はあ」

「どう思うかね」

「ネクラテス、正直に言うとわたしは混乱しています。この社会の秩序に照らして、あなたは疑いようもなく狂っているのですが、それがあなたであると言い切る自信はない。なんといっても社会がクズなのは事実ですから。
とはいえ、わたしはまだどうしても社会改革を目指す方向が望ましく感じますし、ネットでのニート叩きも止めないでしょうね」

「なるほど。それなら次までに、もっと君を説得できるような話を用意しなくちゃいけないね。あるいはそれより、ネットリテラシーの授業をしたほうが良いかもしれないが」

「そんなに神経質にならないでください。ところでネクラテス、今日はどうしますか。結局バイトには行かないつもりですか」

「ペシミアス、先程までの議論を思い返してみたまえ。余裕ある人間が働くのをやめることがいかに革命的か、わたしは長々と話してきたのだよ」

「ですがネクラテス、思うにあなたは「余裕ある人間」ではなく、働かなくてはいけない側ですよね」

「うん?いや、幸運なことに、きみのおかげでそうではないだろう。わたしのこの革命行動はきみの実家の財産に助けられて可能になっているわけだから、きみには単なる個人的なそれに留まらない感謝を、世界の革命精神を代表して述べたいと思うよ、ペシミアス。
よし、さすがにもう寝るから、きみは鍵を閉めて帰ってくれたまえ。まだ7時間も眠れていないんだ」

「はあ。ではお暇します。いい夢を、ネクラテス」

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