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なぜCAPCOMは女性作曲家が多かったのか


1983年~1990年
他のゲーム会社のサウンドは男性が多かった
各社ゲーム音楽のバンドを作った時期があったが
S.S.T.BANDさんやコナミ矩形波倶楽部さん
ZUNTATAさんなど
殆どが男性中心だったと思う
その中で
なぜかCAPCOMだけは女性中心だった

CAPCOMの開発室が出来たとき
サウンドが必要ということで社長は求人を出した
どこに出したか?
「大阪音楽大学」と「大阪芸術大学」
「㈱CAPCOM、ゲーム音楽作曲家募集」の張り紙は
その大学の求人コーナーの掲示板にひっそりとはられていた
大きく就職情報誌や職安などには出さず
ピンポイントで大学に出したためその時点で
バンドで曲作ってますという人よりは
クラシック系の女性の目に止まりやすかったのだと思う。
時代背景として
1969年より1986年までヤマハポピュラーコンテストの
「POPCON」というのがオリジナル曲を作っている人が
目指すコンテストで一番人気があったものだ
まぁ私も目指してましたが・・・
簡単に応募でき、いい曲だと受かる可能性の高い
夢を叶えるのに一番身近なコンテストだった
(いろいろ裏はあったのだと思うが)
その他にも各レコード会社によるコンテストが盛んで
オリジナルを作る人はそういった道を目指していた
当然、歌ものである。
今のようにDTMなどないので、一人でピアノやギターで歌うか
バンドで発表するかしか手段はない
歌なしのインストのコンテストは私の記憶にはない
あまりポピュラーではなかったんだ
それはもう音大とかでオーケストラを作ったりする人というイメージだった
なので「ゲーム音楽作曲家募集」と見ても
イメージできる人はいなかったと思う
ましてやピコピコ音3音のみである
(ピコピコ音3音もほとんどの人は知らなかったと思うが)
音大・芸大で作曲や楽器を勉強してた人にとっては
「まったくもって話にならない・・」
っていう音楽だったのかと思う
そんなわけで
何かわけのわからない会社に就職するわけにはいかないと
応募する人は少なかったようだ
結局、面白そう!と面接希望したのは女性だけだった
そして二人の女性がCAPCOMサウンド担当として入社し
「SONSON」はその二人で作った
ただ、作曲やピアノは得意だったが
効果音やPSGやFM音源などの知識はなかった
そこに1年経験を積んだ私が入り
(その経緯はnoteの「ターニングポイント」に詳しく書いている)
その後、大阪芸術大学の音楽工学を勉強した男性が1人入社
作曲家2人、サウンドエフェクト2人の4人で
CAPCOMサウンドはスタートした
その時点で女3人、男1人という割合だったし
男性が一番最後に入ったので女性優勢なチームになったのだ

その四人で「魔界村」「戦場の狼」「エギゼドエグゼズ」
「1942」「ラッシュアンドクラッシュ」などのサウンドを作り上げていた
開発ビルは古い貸しビル
企画室、音響室、プログラム室に分かれていた
音響室は真ん中の部屋で窓がなく、部屋の上の方に四角い小さな窓があり
牢獄のようだと言われていた
ゲームは次々ヒットし
30人から50人そして100人と開発の人数はどんどん増え
毎年引っ越ししていた。
その後、自社ビルに引っ越したが
人が多くなったためサウンドの部屋を空けてほしいということで
自社ビルの前の貸しビルにサウンドだけ引っ越しをした

ファミコンも世に出てきてサウンドも人を増やそうということで
また「大阪音楽大学」と「大阪芸術大学」に求人を出した
そして、一般教養試験・サウンドに関する試験・曲の提出・
面接が始まった
その年には、もう世にゲームというものが広く知られ
応募は多かったし男性もたくさんいたと記憶している。
二人入れるように言われていたがどんな人が入ってくるのだろう
私はもうワクワクしながら待っていた
「決まったよ!」そう言われて履歴書を覗き込んだら
女性二人の名前
「なんで?ふたりとも女性?」と聞いたら
すべての試験で点数を出して上位二人を合格ということにしたら
なんと1位も2位も女性だったのだ
もちろんFM音源に関する問題もあったし
サウンドプログラムの簡単な問題もあったと思う
どう考えても男性の方が有利に思っていたが
FM音源の問題が一番できていたのが
音大、作曲家卒業の民谷さんだったのだ
(スウィートホームやストライダ飛竜を手掛けた)
そんなわけで、狙ったわけでもなく
またもや女性が増えていくわけである

次回はアルフ・ライラ・ワ・ライラ誕生秘話などを書いていきます


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