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出合いに感謝!

2023年で75歳の私の「来し方」も、いろんな方々との「出合いの積み重ね!」であった・・としみじみと感じています。
 現在もマイカーの後部にメッセージを貼って皆様との出会いをお待ちしています!
今回も、あなたとの「出会い!」に感謝します!この記事を見つけて頂いて有難うございます。

 実は、私も縁あってWBハウスの施主の一人になりました。
何処で生まれて、何をして来て、何を切っ掛けにWBハウスと出会い、施主になったのか・・?何故WBハウスの営業をしているのか・・?
これも何かの”ご縁”ですので、私の「長々とした身の上話」に以下お付き合いください。

私の生家

 WBハウスと出会い、施主になったのも、 やはり「出会い」でした!
私は、愛媛県の山奥(現:西予市城川町)で1948年に農家の長男として生まれました。(2022年現在74歳)「杉林に囲まれた」のどかな田舎です。当時、花粉症など聞いたこともありませんでした!
 ゆくゆくは、親の後を継いで農業をすることになったのだろう・・と思いますが、親父が「お前の好きなことをやれや・・!」と、農家を継がなくても良いと言ってくれました。


私の生家と納屋と畑

そのおかげで地元から離れた「宇和島」の高校に進学出来て、浪人もしましたが、結果的に山梨県の大学で4年間部活動に明け暮れました。 昭和47年、当時では花形?の老舗である「池貝鉄工所」に50人の同期生と共に入社して、当時から公害で有名だった「川崎市」に就職しました。 川崎市に就職してすぐに、激しい「涙目」と「鼻水」が止まらなくなり、駅前の病院に駆け込むと、「パッチテスト」でのアレルギーの判定で「あなたは杉花粉症です・・!」と診断されました。生まれ育った生家は杉林に囲まれた山あいの土地で、それまでクシャミや鼻水を意識したことは無かったので、やはり「排気ガス」や「化学物質」が花粉症の発症の引き金にになったんだろうと今になっては思っています。 もっとも「花粉症」は、45年後の2016年に、エアープロットに「出会って」「採用して」「寛解して」「開放されました」が、それまでの苦労は大変でした・・。

 1985年の「つくば万博」の年に、会社の移転に伴って、現在の茨城県行方市玉造へ移住しました。
当時は、工場新設・社宅新設で心機一転張り切って業務に邁進したものです。地元の地方冊子にも「素敵な社宅」として紹介されたほどです。

 今思えば、社宅の冬場の「窓の結露」は当たり前で、レースのカーテンも黒く「黴て」いました。また、長年撮り溜めた子供たちのビデオテープが押し入れの中で黴てしまい、後日DVDにダビングする時に大変苦労しましたが、当時は「家とはこんなものだ・・」くらいの認識でした。 ある日、社宅の6畳和室の天井から、雨が降っていないにも関わらず「ポタリ!ポタリ!」と音がしているのに気付き、天井裏に登って見ました。懐中電灯の先に見えた垂木は「真っ黒く黴ており、シットリと濡れていて、その雫が和室の天井に落ちている」のを見ても・・「困ったもんだ!」くらいの意識しかありませんでした。今にして思えば「生活するだけで出てくる”湿気”」がここまで酷い状況を作っていたんですね・・! また、当時水戸にあった「テール」という会社の建売の新聞折り込みチラシが「派手なデザインで、低価格!」をアピールしていたので、「この程度なら、我々にも手が出るかな~!」と何度か気持ちが動かされたことがありましたが、いかんせん子育ての最中で思い切れませんでした。良くぞ、あの時手を出さなくてよかった・・!!と今になっては思います。 私たち3人兄弟は結果的に茨城(私)、横須賀(妹)、埼玉(弟)と、両親を愛媛に残したまま関東地区に生活の基盤を築いてしまいました。残された両親は、元気なうちは「会えない時間が想いを育てる・・!」言葉通り、久しぶりの帰省をお互いに喜び合ったものです。 でも、時の移ろいはある意味「残酷!」でもあります。親父も70歳を超えると、だんだんと体が動かなくなり、肺ガンを発症したこともあり、農業を続けられなくなり、地元の方々に田畑をお願いして作って頂くようになりました。 そんな頃、2004年の8月に私一人で帰省してみると、親父がお袋を「ひっぱたいている」場面に遭遇しました。お袋の「認知症」が出てきて、何度も同じことを言うものだから親父がブチ切れてひっぱたいたようでした。その現場を見て、長男である私は両親を茨城に引き取る必要があると決意しましたが、いかんせん社宅に引き取る訳にもいかず、戸建てを検討しようにも、住宅に関しては、上述のように何の知識も準備ありませんでした。 帰路、東京の「八重洲ブックセンター」で住宅関係の書籍を立ち読みしていた時に、何気なしに手にしたのが、「棟梁が考えた驚異の通気断熱の家、WB工法」との「出会い!」でした。

「棟梁が考えた驚異の通気断熱の家、WB工法」

それまで、工作機械エンジニアの端くれとして生きて来た私の感性にピッタリで「生活で発生する室内の”湿気”を自然にコントロールして屋外に排出することが大切!」との言葉に、体が震えるような感動を覚えたことを今でも思い出します。帰宅して、すぐに地元で”WB工法”を手掛けている工務店を探して、いろいろの経過ののち、「出会った」のが今の(株)キョーリンでした。すぐに、当時モデルハウスを水戸の傍で持たれていたので、訪ねて、「WBの部材」を確認して、納得し、打ち合わせをし、土地を探し、頭金を絞り出し、ローンを組み、契約したのが2004年の12月でした。実際に現在のWBハウスの自宅が完成したのは2005年の5月でした。 早速、張り切って帰省し両親に「さあ、此処を処分して茨城へ行くよ!」と話をすると、親父はその気になりましたが、お袋は「此処の田や畑はどうするのぞ!誰が面倒を見るのぞ!爺ちゃんから受け継いだ財産は1cmも売っちゃいけん!!」と凄い剣幕で反対し、その迫力に私も圧倒され、親父と二人でお袋の迫力になすすべもありませんでした・・。あのお袋のどこにあんな迫力があったのか・・! 結果的に、両親は一度も新居に来ることも無く、親父は亡くなり、お袋は認知症が進んで生家近くの施設でお世話になっています。

手造りの実験装置

話が、長くなりましたが、これからが私の第二の人生です。 勤めていた池貝(池貝鉄工所から社名変更しました)が、2000年に日本で初めての老舗工作機械メーカーとして「民事再生」となり破綻し、債権者の皆様には多大な迷惑をかけ、個人的にもいろいろ苦労はありましたが、何とか2012年まで務めさせてもらいました。 2012年に退職したものの、年金だけでは住宅ローンの返済が難しいので、職探しをしている中で、キョーリンで「WB工法の営業としてなら雇ってもらえる」ことになり、それまで住宅に関しては全くの素人の私が、果たして職人の塊のような大工さんや棟梁にPRができるのだろうかと大いに不安はありましたが、とにかく当たって砕けろ!の精神で今日(2022年)まで来ています。これがWB工法営業との「出会い」です。 その間、地元の工務店さんをお誘いして長野のウッドビルドへも10回ほどお邪魔し、故寺島今朝成会長にもお目に掛かり、その想いの一部を拝聴できたことが私にとって「大きな財産」となっています。

大学並みの実験装置!

 今でも印象に残っているのが「家造りをしたことが無い大手企業が家造りに乗り出した頃から日本の家がおかしくなった。国も当時、”高気密・高断熱こそ”省エネルギー”だと、ボタンを掛け間違った。だから、途中で全国的にシックハウス症候群が起きてしまい、国は慌てて「換気扇の義務化」とか「F☆☆☆☆」を法律で指示したが、これらはあくまでもその場、その場での「ドロナワ式」の「対処療法」でしかなく!根本解決にはならない。元に戻ってボタンを掛け直す(日本伝統の家造りに戻す)しかない!」との言葉です。
 さらに、「北海道からプレハブ工法が暖かいということで長野にも入って来た。当時、一般のお施主様から『棟梁の会社はどんな工法で家を建ててくれるの・・?』と、お施主様が”工法”という言葉を使われるようになった。それまでは、日本の家造りは一種類しかなかったのに・・!」とも言われていました。貴重な開発者との「出会い」でした。
さらに、「40年程前には、当時3億くらいあった売上が”ゼロ”になるほど仕事が無くなった。止む無く大手の下請けもやってみたが、石膏ボードを貼る前に”ビニールシート”を貼るように指示された・・。作業している間にみるみるビニールシートが、木材や自分たちから出ている”湿気”で曇って来る!こんな家づくりは間違っている!!と感じたが指示に従うしかなかった・・。」とは、現寺島社長の言葉です。家造りで一番大切なのは「人が生活すると、大量に室内で発生する湿気を”機械に頼らず!”如何にして屋外に排出するか?」に尽きると、今朝成棟梁の言葉と共に実感しています。

 一人の宮大工であった寺島今朝成氏が、「国の住宅行政に疑問を感じ」、「自分で実験して」みて、その「間違いを指摘し」、思い切って「国土交通省と交渉をし」、3年4か月に渉る交渉で、一般人には困難な「データー提出」を求められ、それに敢然と対処して、結果的に「認定を勝ち取られ」ました。
国も驚く”粘り強い交渉で”「国土交通大臣の認定」を唯一受けているのがWBハウスです。
シックハウスが全国的に問題になった時点では、国にWBハウスのデーターを添えて「解決策!」を提案されましたが、全く無視されたそうです。住宅行政が間違っていると国会まで、有志を集めてデモ行進までされたとのことですが、現在までも国は動きません。いや!「湿気」を無視し「気密」「断熱」に拘った「ボタンの掛け違い!」のため「今更、国は動けません!
住宅行政の方針を変更すれば・・、全国から訴訟が多発するはずです!
2022年時点で「WBハウスの原理」を凌駕する工法は私の情報アンテナには入って来ていません!!

 ぜひ、長野のウッドビルドへご案内をさせてください。故寺島会長が「どんな思いで、どれだけ大胆に、国の方針の間違いを正そうとされた!」のか、「あなたの家造りには何に最も注意して検討するべきなのか!」が良く理解していただけますので・・。いつでも、お気軽に、全国どこからでも河野に声をかけてください。お待ちしております。m(_ _)m

不一

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