作曲とパクリの境界線?

徒然なるままに。今回は表題の通り、作曲とは何かについて書きながら考ていく。随筆以下の文章ですがお付き合いください。

1. パクリからスタート

中学2年の時に中二病を発症。その時から「いずれフュージョンの時代が来る」と思い続けてせっせと曲を執筆。拙作2枚の中にもその時期の作曲のものが多数。で、その元ネタは何度も言っているがT-S。本当に中学→高校はT-S一筋であったから。どうにか似ないように似ないようにとアレンジを書き換えたものの、やはりパクリ感が残る。

2. 完全なるオリジナルは存在しない

高校文化祭を終えた後だろうか。片付けを無視して先輩と語ったような覚えがある。「完全なるオリジナルは存在しないんだよ」と先輩は言う。その時の山本少年は「完全なるオリジナルを作って見せる」。指導グレード取得勉強中であったため、一番楽典の勉強をしていたときだろう。

残念ながら当時の作品も今も、何らかの影響下に置かれている/た。実際音楽の現場でも「○○みたいな音楽がやりたい」という。「まったく新しい音楽で世界を変えていこうぜ」とはならない。どうしてだろうか。

3. オリジナル恐怖症?

「完全なオリジナル」が作成可能かどうかは置いといて、ここでは「完全なオリジナル」を発表した場合の世間の反応を見ていきたい。たいていの聴取者は「ここ一瞬○○のパクリ?」だの「○○っぽい」だの、ほかの曲と比べる。もし作曲者が自分の知っている曲すべてと照らし合わせて「似ていない」曲を作ったとしても、全く違う趣味を持った聴取者から思わぬ指摘も入りかねない。

もしくは「この曲意味わからなすぎて気持ち悪い」という評価が下される場合もある。つまり実験的過ぎて世間の耳がついていけない場合だ。商業音楽の場合、そうした「耳なじみの良さ」が重視されるため、実験音楽が売れるケースは「本当にいい音楽」か「有名すぎる人が出した」か「盛大な広告キャンペーンを打った」場合に限られるだろう。

特に日本人は「右へ倣え」の文化の影響下にある。みんなが聞かないものは聞かないし、みんなが絶賛しているものは嫌いでも絶賛しておくものだ。まあ私のような中二病歴10年のような人ならば、その限りではないのかもだが。いずれにせよ、商業作曲者が「実験」をあまりしない理由の一つには、「originalphobia」(造語)が存在しているのかもしれない。

4. おまけ

楽典を知りすぎると、楽典に沿ってしか曲が書けなくなる。私は和声法の禁則は無視する人だが、コード進行の特にjazzの理論は無視できない体質だ。楽典をぶち壊さない限り安泰は保てるが、それは他人の敷いたレールの上を走っているに過ぎない。楽典は知らない方がよい。でも知っていた方があとあと役に立つ。作曲するときだけ忘れるとか無理なのか。むりだわな。

ここまで読んで意味の全く分からない読者がいるとすれば、それは勉強不足ではないから安心してくれ。ただこの文章、私も意味が分からない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?