「貧困家庭×中学3年間不登校」でも、地域で一番の進学校に受かった私の「居場所」
私にはいつも、居場所がなかった。
私は、中国地方の出身で、超ど田舎の超貧困家庭で育った。
幼い頃から、家では障害を抱えた父の暴力が止まず、家には本やゲームも、エアコンもなかった。
家には、学習できるどころか、安心できる居場所がなかった。
父の怒鳴り声を聞きたくなくて、いつもどうしたら家にいる時間を減らせるか考えあぐねていた。
山奥で育った私は、中学1年のとき、事情があって、引っ越しはせずに、家から車で20〜30分の距離にある街中の中学に入学することになった。
それが、私の人生の転機となる。
小学校からの人間関係がなくなった中学生活で、いじめにあったのだ。
こうして私は、家だけでなく、学校でも「居場所」を失ったーー。
中1の5月から始まったいじめによる不登校生活
期待と不安が入り混じった入学式。そんな中学生生活は、わずか1カ月で終わりを告げる。
入学当初に関わるようになったのは、スクールカーストトップのギャルのような子たちのグループだった。もともと明るく背も高くて目立つ方だった私は、その子たちとうまくやっていた。
しかし、私は車で20分かけて中学に通っており、休みの日に友達と遊ぶのは簡単ではなかった。誘われても断る日々。それが影響してか、ある時、そのグループのリーダー的存在に嫌われ、一気にクラスから仲間外れにされてしまった。
すれ違う時、授業中に暴言を吐かれる、机を離される、などのいじめから始まり、次第にエスカレートしていった。
通っていた中学では当時、漫画『ライフ』ばりのいじめや、放火なども起きていたので、荒れていた学校だったようだ。
私は徐々にご飯が食べられなくなった。
毎朝使う寝癖直しの匂いで、学校での記憶がフラッシュバックするようになった。学校へ行こうとするとお腹が痛くなり、ゴールデンウィークを境に足が遠のいた。
学校に行かずに家に篭ったが、そこにも地獄が待っていた。
不登校に父が激怒、行動制限が始まる
私が学校へ行けないことを知った父が、烈火の如く怒鳴り散らすようになった。
「テレビは見るな、部屋から出るな」
目を剥いて私にそう言った。
5歳上の姉が不登校になった時にも、胸ぐらを掴んだような人だ。想定できる反応だった。
日中はやることがなかったので、父が仕事に行っている間は、部屋から出てテレビを見ていた。
しかし、父の気配がするとすぐに消して部屋に戻った。
見つかったらどうなるか想像できた。
そして、私の不登校によって、ついに母まで体調を崩してしまった。
息苦しくて息苦しくてたまらなかったことを思い出す。
家でも神経を張り巡らせ、街に出ても学校の子に会わないかと怯えながら暮らした。
「学校に通う」という役割を果たしていない自分には、生存権がないように思えて、存在をかき消してしまいたい、と願う毎日だった。
やりたいことはたくさんあった。
本当は、外に出て、普通に暮らしたかった。
それを全部、家や心の中に押し込めて、ただ毎日をやり過ごした。
母に連れ出されフリースクールに
そして徐々に、死にたい、という気持ちに囚われるようになる。
正確にいうと、今を過ごす目的がなくなってしまうほど、死ぬこと以外考えられなくなっていた。もしかしたら、うつ状態だったのかもしれない。
「死」が足元から這い上がって、身体中に絡みつく、あのねっとりとした感覚。
自傷行為もやめられず、心も体もずしりと重かった。
3カ月ほど経ったある日、新たな転機が訪れる。
母が見つけてきたフリースクールに、私を連れ出したのだ。そこは市が運営する小さな支援センターで、市内各地から不登校の子たちが集まる場所だった。
私と同じように傷ついた子たちがたくさんいた。
みんなが複雑多様な問題を抱えていた。
本当にさまざまな事情を抱えた子どもたちが集まっていた。
ただ、みんなとてもやさしかった。人の痛みを知っているからだろうか。
フリースクールには、みんなが集まる大部屋と、そこに入れない人のための小部屋があり、私は小部屋に引きこもっていた。
当時の私は、街行く人の笑い声も、全部自分を嘲笑するものに聞こえてしまうほど、人間不信に陥っていた。
実際、ショッピングモールでいじめた同級生に会い、張り付くような笑顔で話しかけられたことがそれに拍車をかけた。
しかし、フリースクールに通い始めて2カ月ほどたったある日、狭くて少し薄暗い、遮断された小部屋から、半ば強引に引きずり出されることになる。
わざわざ私のいる部屋までやってくる子がいたのだ。その子は大きな声で言った。
「ねぇ、なんでここにいるの?こっちにおいでよ」
そこからどうやって仲良くなったのか、よく覚えていない。
初見は、“うるさいギャル”だった。
声が大きくて、中学生なのにメイクが濃くて。でも、どこか嫌な感じがせず、私の警戒心をかき消すほどに、とにかく明るかった。
彼女は、私の心のバリアなんて余裕で突き破って、「こっちにおいでよ!」と、誘ってくれたのだ。
その子は、こちらの反応なんか気にせず、
「ヒオカは本当に可愛くて面白い!」
そう、まっすぐ伝えてくれた。
そのときまで、誰も私の存在を認めてくれないと思っていた。
学校では誰もが私をいない物にした。私の心をズタズタに切り裂いて、壊していった。私の存在を、正面から認めてくれる人なんて、誰一人としていなかった。
だけど、嘘みたいに明るいその子が放った真っ直ぐな言葉は、私の中にある固い硬い壁を突き抜けて届いた。
それから私もみんなと関われるようになった。
息を吹き返したわたしは、かつての明るさを取り戻していった。
フリースクールに通っている事実は父の怒りを和らげ、母を安心させた。
そして、私の家での居住権を高めてくれた。
フリースクールは学習時間があり、ひたすら勉強するようになった。
もともと勉強は好きだったが、数カ月のブランクはやはり大きかった。久しぶりに受けたテストは惨憺たる結果だったが、自習を続けると、授業は受けずとも、5教科テストの合計で400点を切ることはなかった。
それを見てフリースクールの先生が、学校へ戻ることを勧めた。
半ば強制的ではあったが、2年生から学校の「相談室登校」がはじまった。
放課後、図書館が居場所に
再び通い始めた学校では、相変わらず息を潜めるように過ごした。
登校初日は歩いているだけで注目の的だった。指を刺され、じろじろ見られた。
そのため、次の日から時差登校に切り替えた。
遅く登校して早く下校する生活で、とにかく人目を避けた。
そして、相談室ではとにかく自習した。
教室には入れず、塾や通信教育のお金は無かったので、ひたすら自分で問題集を解き、わからないところを後で相談室の先生や教科の先生に聞いていた。
相談室まで、私の給食を運んでくれる友達の存在も大きかった。
そんな私が放課後、家には帰らず、学校から通っていた場所がある。
学校から歩いて5分の距離にある、市立図書館だ。
家からは車で20〜30分だが、学校からは徒歩圏内だ。
その市立図書館はとにかく大きくて、設備が整っていた。
放課後は、みんなは部活で学校にいるで、学校が終わると図書館に向かい、そこで仕事帰りの母の迎えを待った。
母が19時ごろ迎えに来るので、それまでひたすら本を読んだり、勉強して過ごした。
たまに学校の人に会って、あとをつけられたり、笑われることはあったが、とにかく広くて、本棚には本がたくさんあるので、逃げることができた。
また司書さん達がとても親切で、うるさい人や、つきまとう人がいれば注意してくれたりもした。隣に市民ホールがあり、自習したり飲食もできた。
図書館の空調は整い、全て無料だった。
静かで心が落ち着ける、私の居場所だった。
私は本を読むのがもともとすごく好きだったわけではない。家には本はほぼなかったので、触れる機会もそこまでなかった。
ただ、このときは、本が私の友達だった。
生温くて、息苦しい日々に、現実とは違う世界を教えくれた。
物語の中だけは、違う自分になれる気がした。
学校から逃げる主人公の物語を読む時、自分自身を重ねたりした。そうすると、少しだけ勇気が湧いてくるのだ。
また知的好奇心を満たしてくれる情報誌や本もたくさんあった。
職業の本を読みながら、将来に想いを馳せたりしたものだ。
心理的安全性が守られた図書館や学校の相談室で、わたしは無我夢中で勉強した。元々勉強が好きだったが、家にいる時は勉強する気力も起きなかった。
居場所がある、ということは、私に勉強する活力を与えてくれたのだと思う。
3年生になった私は、担任から市で一番の進学校を受験することを勧められるようになった。
不登校なのに弁論大会に出場
中学三年生の時、私は弁論大会に参加した。
わたしの中学は、作文の全員提出が義務で、私も相談室で執筆した。いじめによる不登校から相談室登校に切り替えたこと、給食を運んでくれたりする友達がいることで、少しだけ教室に入れたことなどを包み隠さず綴った。
幸い、その大会が別の市で開かれる年だったため、同じ学校の子は会場にこな
すぐに暗記して、情感をこめるトレーニングをくり返した。
-舞台に上がる5分前、お腹が痛いほどの緊張が興奮に変わる。
抑えられない胸の高鳴り。
本番の日、500名の聴衆を前に、私は無心で熱弁をふるった。
-私は、抑圧されていた3年間の思いをそこに吐き出すように、魂を込めた。
言葉が空気をつたって、聴衆に届くのがわかる。
私は壇上で語りきった--。
ああ、生きてる。
-そう、実感する瞬間だった。
引率の先生がいたのだが、舞台を降りた後、興奮気味にかけよってきた。
「まさかあなたにあんな表現力があったなんて。号泣しながら聞いてるご父兄もいらしたよ」
その時の体験は、私に言葉で表現する喜びを刻み込んでくれた。この経験がきっかけとなって、高校に進学してからも発信を続けることになる。
withコロナの時代の"居場所"
中学校での進路説明会の時、わたしをいじめた子がこちらを見ながら、「あの子、普通科いくの? ありえない」と話してたことを思い出す。
しかし、私は市で一番の進学校に合格した。
受験した高校は、東大などへ毎年入学者が出る進学校だが、もちろん公立だ。だから貧乏なうちでも入学できた。もちろん奨学金を借りながらだったが。
高校に入ってからも、私は大きな市立図書館に救われるのだが、その話はまた次の回に。
ふりかえれば、フリースクールと図書館は私の居場所だった。
学校にも家にも居場所がない私が、唯一、心の安全を保てた場所。
コロナで図書館が休業しているニュースを聞きながら、
“第2の私”はどうしているのだろうと、時折想いを馳せる。
図書館にはネットもあったし、あらゆる情報源があった。
心置きなく使える自習の場、空調なども。
"家に居場所がない子どもたち"は、withコロナのいま、どうしているのだろう。
都市部を中心に支援の輪が広がっているが、私のような地方にいる子には、その手が届かないのではと心配になる。
貧困家庭や家が安全でない子供たちにとって、公共の施設が「居場所」になっている可能性があることを強調しておきたい。福祉サービスを必要としている子どもたちがいるのだ。
-そして何より、無料でアクセスできる居場所こそ、私のような子を救うのだと信じている。
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