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世の中は多種多様な人であふれている

人間って色々な人がいますよね。

作家は言わば人間を描写することを中心にして書くこと生業としますから、人に出会い、かかわりがあれば、「この人はどんな人なのか」という関心が必ず涌きおこります。

そして、それを言葉にいかにリアルに描くかを考えます。

わたしも今までの行政の窓口経験や図書館の業務、作曲界との交流などを多様な仕事を通じて、いろいろな人々と遭遇してきました。

そんな経験をもとに人間を職業や生活上の呼称に大まかに分類し、小さな百科事典に収める試みをしました。

そして、少しだけ意図的に難解小説風な視点の書きっぷりで綴ってみたのです。

特に最終章は収めたすべての呼称を登場させましたので、次に取り上げてみます。

全体を通して読むには、同投稿欄に並列で掲載しています。

100円の料金がかかりますが、もし、下の最終章を読まれてお気に召しましたら、ぜひ全文もご鑑賞くだされば幸いです。

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『JUST KIDDING』から

“壱拾六 文化人” 

 超人と世捨人を掛け合わせたなら、それは変人と化し、変人は面倒くさいことが嫌なので、苦労人となることはあり得ず、むしろ廃人になることを好む。

廃人は変人を好むことはない。

そのかわり廃人は偉人が大好きで、「もしもし」と声をかけた暁には、偉人は顔を一瞬向けた後に、何事もなかったかのように考え事を始める。

そこで凡人と偉人は大差がないことを証明するために、至るところから採集してきた凡人と偉人の戯言を900例ほど確認したが、すべてが紙一重だったことは確認できなかったので、偉人はバカと利口の差を証明し損ねた。

偉人が素人に憧れつつ、食い繋ぐために、商売人になろうと雑貨のネットショップを心得ている異邦人と知り合いになったが、まったくもって商売人の素質を持ち合わせていなかったので、憐れ日本刀を所持していた浪人に切り捨てられてしまった。

その浪人ときたら、社会人であったにもかかわらず、我こそが芸能人と意気込んで、テレビ出演できないかとあるテレビ局のディレクターにかけ合ったが、まったくの別人が起用された。

それが何でも器用にこなす寄木細工づくりの有名人であったことから、後に黄綬褒章を受ける際に文化人と認められたので、誰にでも知られる結果となっている。

栗山 丈『JUST KIDDING』から最終章、「壱拾六 文化人」より

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