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老化現象という自己解放、本性の現れ 人間の本質は動物と一緒だろう

老化現象(認知機能の低下)についてネガティブ、ポジティブな意見がある。自分はそれらとは少し異なり、老化現象に自分を見出す自己再発見自己肯定の愛しさと、恐怖を覚える。今日はそんな話。




老化現象とは一種の本性の現れ

老化現象は本性の現れだと思っている。若い時100エネルギーがあるときは、何でもできる。しかし、それが90,80、50と減っていく、必然、できることが減る。そして、省エネというか省略になり、したくないこと、しなくてもいいことを削っていき、したいこと、しなきゃいけないことが残っていく。そうして残った残っていくものが本当の、心?本性?自己の望み?なのだ。

年老いてゴミ屋敷に住む人は、住環境の綺麗汚いがどうでもいい人だからそうなる。

年老いても、美容や外見に拘る人は、美意識が高い人

年老いて、他人に粗野で乱暴な人は、本当は粗野で乱暴でもいいと思ってた人

年老いて、エロやセクハラに走る人は、本性は性方面に奔放な人

年老いても、明晰で受け答えがしっかりしているひとは知性理性を重視した人

年老いて、ボケる人は本当は学ぶとか智とかどうでもよくて食う寝るの人

行動傾向とできることのエネルギーで説明してみたが、脳内(認知機能の低下)においても同様のことが起きている。





認知症(認知機能低下)と本性の現れ

医学関係者ではないので、そこは悪しからず。認知症とは、脳の老化であり、脳の認識や知覚や記憶等の、脳機能が徐々に低下していくことだ。その脳内では、神経細胞の生産と破壊のバランスが、破壊優位にかたむき生産が追い付かずにどんどん削られていくくことで、そうなるらしい。遺伝子や生活環境生活習慣でも大いに進行は異なるし、生産優位にできれば認知症もある程度、改善するらしい。

脳内での破壊は、脳の取捨選択で行われ、よく使う神経細胞群(興味関心や普段活性化する部分)は最後まで残され、あまり使わない(活性化しない)部分は不要と判断されて真っ先に破壊されていく。当然臓器などの生命維持領域が一番最後の破壊領域になる。

冒頭の通り、老化によって減ったエネルギーの振り分けという行動でも本性が出てくるし、脳内の老化でも、明確に普段よく使う脳の分野、つまり興味関心のあるところが最後まで残るのだ。

認知症の進行度でも異なる。進行速度によって多種多様あるので、この年で○○は、○○だと言いたいわけではない。もう5しかないならば、心臓や臓器を生かす最低限のエネルギー分配で、頭や知性にもう割り振る力もないかもしれない。でも、30,40はある人でも、人により多様な老化をするその在り様は、あぁ、これがその人なのだと愛しさと恐怖を思う。老人こそ、その人次第で多種多様な生活というか、重点を置いている人生観人間性の違いが明確になっていくので、興味深い。





本性は動物と一緒だろう

どんどんその人にとっての無駄がそぎおとされていくと、ある点ではその人の本性が明確に出てくるはずだ。ただの仮説でしかないが、いくつかの観察から、結局人間の本性とは、動物と一緒でしかないように思った。つまりは、相手にどう勝つか、どうすれば勝ったことになるのかが一番にあり、次いで、その勝ち方の方法論になにを選ぶかしかないように思う。

認知症になって、一日中同じ映画を見ている。その映画が好き、ある特定の音楽を聴いていると落ち着いているというタイプもいると思う。それはその人の心が本当にソレに興味関心があったのだ。しかし、そうではなくて粗野になったり、疑心暗鬼になったり、攻撃的になったりする人も多々いる。認知症以前にスキだった○○を与えても、何も反応しないこともあるだろう。というかそういう人の方が多い気がする。

そういう場合、スキという皮を被ったその人の本性、つまり上述の、相手への勝利仮説から、それを好んでいただけで、それ自体が好きだったわけではないという気がする。(映画の話でマウントを取るのが好きで、映画そのものが好きではなく、マウントを取る道具に映画をみていたわけで、その道具として映画を認識できなくなったら、好きだったはずの映画に興味を示さないわけだ。)

この辺はいつか研究する機会があればデータを取りたい。そういう勝ち方仮説の本性の現れは様々あるだろう。

例えば、体が小さい奴は、言葉やお金、武器で勝とうとする。仮に言葉を選んだ場合、理論武装という方法論を選んで勝とうとするタイプもあれば、強気な物言いや頑固な物言いで相手を退けるを選ぶタイプもあるだろう。

他にも例を挙げればキリがない。そして、この勝つというのもかなり多様で、お金持ちになって勝ったというのもあれば、大きい車にのった勝ったもあるし、女をいっぱい抱いて、モテる勝ちもあるし。子供や遺伝子ではなくて、自分のなした業績とか、技術や研究に打ち込むという人もでてくるだろう。それがその人の他の人への相手への勝ち方なのだ。




終わりに

認知症になっても、慈愛とか平和とか親切心を一番に掲げている人は見ない気がする。上述の映画や音楽に熱中する人もそうで……、やはり攻撃的になる人が多い気がする。攻撃的という自分の勝ち方を固持しようとなる気がする。お金に執着したり、逆に全く無頓着になったりもそう。その人が本当はお金をどう見ていたのかわかる。ある何かに囚われているように見える。

そう考えると、人間の本性は動物的である気がする。理性知性というものも、ただのそのブレーキ機能と、動物の食う食われる以外の複雑な戦いの中で、どういう選択をしようかという幅が広がっただけで、動物的本性を管理できているわけではなく、それにいいようにのっかている、舵をとっているだけのような。そんな程度のものだ。

仮に平和慈愛云々や社会の在り方云々をうたう人がいても、それはその人の相手(仮想敵)への勝ち方にそれを選んだというだけで、真に平和なるものを実現体現できる人はそういないのかもしれない。



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