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聖アンデレ(2-i) 通説への疑問

次に進む前に、ここまでの議論をおさらいしつつ、通説との相違について整理しておきましょう。

イエスという人物

 イエスは、もともとは敬虔なユダヤ教徒の家庭で、モーセの律法を信じて敬虔に生きていた人物でした。しかし、育ての父ヨセフの死を機に、実父がレバノン兵士パンテラであり、自らは非ユダヤ人とユダヤ人との間の混血であってモーセの律法では救われないことを深刻に悩むようになり、20代後半に故郷である貧村ナザレから出奔。エリヤの再来と呼ばれた洗礼のヨハネの弟子となりました。

洗礼のヨハネの下でイエスは、モーセの律法は形骸化しており民族や職業などに関係なく全人類が救われること、アブラハムですら神の前では無力なことを教えられ、改めて神の前に敬虔に生きることを確信するようになりました。

しかし、洗礼のヨハネの下には、いろいろな地域から人々が結集したため、テロや暴動などの準備ではないかと誤解し恐れた権力者によってヨハネは処刑されてしまいます。教団も強制的に解散させられ、信者は故郷の方に追放されてしまいます。イエスは、ここに神の来臨の意志を感じ、洗礼のヨハネの教えを全世界に伝えて回ることを決意し、聖アンデレを番頭として布教を開始します。独自の神殿を持たず、洗礼のヨハネ教団の時の仲間を訪ねては拠点ごとに布教し、彼の信じる「正しい神の教え」(本当のユダヤ教)を伝えてまわりました。

しかし、満を持して臨んだエルサレム教会(モーセの律法の権化)との対決に失敗し、危篤状態に陥ります。(周囲の人々は死んだものと思っていました。)妻マリアの献身的な介護もあり、なんとか意識を取り戻します。多くの弟子にも再会できましたが、全体的に衰弱が激しく、教団は解散することになりました。その後は、短い期間(長くとも数か月程度)で亡くなったと思われます。

 聖アンデレという人物

聖アンデレはギリシア系であり、生粋のユダヤ人ではありません。洗礼のヨハネの下で管理部門の業務についていたため、イエスにスカウトされてイエス教団の番頭(CFO)となりました。

イエスの没後は、アンティオキアに、世界最初のキリスト者のための教会を樹立しましたが、そこにも長くはとどまらず、黒海周辺など、複数のギリシア都市などを拠点に布教を続けました。

イエス教団の活動

 イエス教団は、ユダヤ教の正しい神の教えに基づき、人々を救おうとしました。ユダヤ人・非ユダヤ人を問わず、すべての人々は神によって救われる。すべての人は死んでも天使のような存在となって、永遠に生きる。こういったことを理解していれば、現実の世の中にある差別や諍いも減り、地獄の恐怖・死の恐怖から人々が解放されるでしょう、と。

イエスや聖アンデレは、この教えを広めることに全人生を賭けました。そして、離散させられた洗礼のヨハネの弟子たちを訪ねては正しい神の教えを説くという巡回洗礼に取り組みました。信心すれば救われることが明快な下層民を中心に徐々に支持者を増やしていきました。

イエスの死後、イエスの教えが風化・散逸することを惜しんだヘレニスタイの一派がアンティオキアを拠点にキリスト者の教会を設置したところ、その動きは各地に広まりました。

原始教会の形成のきっかけについて

われわれの主張は、キリスト教の通説(神学的な観点からの歴史解釈)とは異なります。上記のまとめもそうですし、例えば、ステファノはヘレニスタイのリーダー格だったという通説に対しては、われわれは、リーダー格ではなかったと考えています。また、ペテロはイエスの筆頭弟子にして復活後の教会指導者だったという点については、古い文書に従って「両方とも、違う」と考えています。一番弟子は(ヨハネ福音書に書かれている通り)聖アンデレであり、教会指導者は(エウセビオスが『教会史』で書いている通り)義人ヤコブであったと考えています。

 ここでは、さらに、原始教会の形成のきっかけについても確認しておきましょう。通説として、例えば以下を見てみましょう。

 そもそもの原始教会自体は、一体どうして存在するようになったのか。彼らは一体誰だったのか。端的にその究極的な原因を言えば、それはそもそもナザレのイエスという人物が登場して、「神の国」が切迫していることを宣べ伝えたことである。イエスの直弟子たちはその「神の国」に希望を託していた。しかし、期待に反してイエスは十字架刑によって殺されてしまった。
しかし、直弟子たちは、そのイエスが神によって死者の間から甦らされたという確信(いわゆる復活信仰)によって、挫折から立ち直った。そして甦らされて天上の神のもとへ高められたイエスは、やがて再び来臨して、生前に語り伝えた「神の国」を地上に実現するに違いないとも信じるようになった。これが原始教会が新たに到達した終末論である。
挫折から立ち上がった直弟子たちはエルサレムで小さな群れ(原始教会)を結成した。そしてこの終末論を大きなフレームワークとして、生前のイエスの「神の国」の宣教を新たに解釈し直して行ったのである。
(大貫隆『終末論の系譜』p.12)

 この主張(特に後段)は、よく繰り返されるものです。

 要するに、キリスト「教会」の誕生という行為を成立させるものは、キリスト者という呼び名が現れたことでも、イエスの宣教でもない。キリスト教は、死からよみがえって栄光をうけたイエスという、ゴーゲルのいわゆる「新たな信仰対象の創造」をもって生まれたのである。キリスト教は「復活信仰」から生まれた。それゆえに、カルヴァリの丘(キリスト磔刑の地)における悲劇の翌日が、この論述のもっとも妥当な出発点となるのである。
(マルセル・シモン『原始キリスト教』p.9)

 ここに出てくるゴーゲル氏は、イエス伝承の研究者であったモーリス・ゴーゲル(Maurice Goguel)のことです。さて、これだけの短い文章でも、われわれの主張から見た場合には、以下のような違和感があります。

 ①   教会の発足のもともとの原因について

イエスは、洗礼のヨハネの衣鉢を継いで、神の国の来臨の前に、神の恩寵を適切に感じて生きることを人々に説きだしています。その意味で、神の国の切迫がきっかけとなったことは間違いとは言えないのでしょうが、切迫していることの意味は異なるように思います。

神の国の来臨の本質は、最後の審判にはありません。最後の審判を経たところで、人々は「人の子」(天使のようなもの)として再生するので、最後の審判自体には深い意味がないためです。

むしろ、「ユダヤ人か否かを問わず、人々が神と直接につながっている」ことを把握した上で神の来臨を迎えるべきである(そうでなければ、復活後に、永遠の孤独の中で生きることになりかねない。いま気付けば救われるのだ)という点に真意があったと思われます。

 ②   直弟子たちの挫折から立ち直ったきっかけについて

直弟子たちは、2つに分かれました。ヘレニスタイの側は、恩師イエスが説いた「全人類の救済」という教えを廃れさせないように、興行化や、史上初のキリスト者のための教会結成(アンティオキア)、イエスの教えの文書化(マルコ福音書の成立)、異邦人宣教などを進めました。贖罪思想も、この派生形として生まれました。その意味で、「教え」への帰依こそが挫折から立ち直るきっかけとなったと言えます。

他方、ヘブライオイは、ユダヤ的な終末期待に耽溺していきました。その意味で、ヘブライオイには元々挫折が無かったといってもいいかも知れません。

以上を鑑みると、復活信仰によって弟子たちが挫折から立ち直ったというのは、後代のキリスト教義に基づいた「神話」といっていいでしょう。

 ③   原始教会の組成について

使徒行伝では、キリスト者としての教会成立は、エルサレムではなく、アンティオキアが嚆矢とされています。ヘブライオイがユダヤ教徒となるべく修行していたエルサレムではなく、全人類の救済を説く「イエスの教え」を何とかして後代に伝えようと尽力していたヘレニスタイたちが活動したアンティオキアで最初の教会が組成されたのは当然の帰結であったでしょう。その意味で、エルサレムをキリスト者の教会の本山としてアンティオキアよりも上位においたのはルカ福音書の作者の政治的な立場によるものと思われます。

 ④   キリスト教の主旨について

通説は「復活信仰」こそがキリスト教の中核と見て、これによってイエスへの信仰が確定したとみます。イエスの教えの中身ではなく、イエスをただ外形的に信じればいい、ということになりかねない主張であり、イエスの教え(本当の福音)が見えてこないように見受けられます。

他方、われわれでは、イエスの教えの中核は「全人類の魂の分け隔てない救済」にあるというのが検討結果です。ヘレニスタイや初期のグノーシス主義は、その言葉を信じて布教に励んだものの、イエスや聖アンデレのような人格的な深みや精神性に欠けたため、社会不安をあおる結果となって衰退し、やがて社会秩序を重視する折衷的なペテロの教え(後のキリスト教)に吸収されていったと考えます。

⑤   布教について

エルサレム教会を中心に、すべての弟子が一丸となり、協力して布教にあたった、という説は、われわれは正しいものと考えません。(同様に、ペテロはイエスの一番弟子であり、すべての弟子から尊敬されており人間関係も良好であったというような考え方も採用しません。)

終末論が基軸となった布教は、ユダヤ戦争後、つまり紀元70年以降に、ユダヤ人のキリスト教への取り込みのために行われたものだったでしょう。それまでの布教は、ヘレニスタイとヘブライオイとの緊張関係の中で捉えるのが良いと思われます。

ヘレニスタイはローマ帝国各地に広まりましたが、真意を伝えきれずにトラブルを惹起する原因として忌避されるようになりました。結果的に、ヘブライオイの流れをくむ一派で、折衷的な協議をもち、政治体制との整合性を重視するペテロの教えは、ローマを中心に、ヘレニスタイの地盤・信者を吸収してキリスト教として独自に発展しました。

そして、ユダヤ戦争の敗北によってユダヤ教的な終末期待が終焉を迎えたことによって、ユダヤ人のキリスト教への流入が始まり、その中で、復活信仰や処女懐胎などの「奇跡」が重視されるようになりました。これがペテロの教えと習合し、キリスト教の教義を拡充させていったと考えます。


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