日本傾国中(11)
祖国が傾いている。
日本が滅びようとしている・・・と言っても、過言ではないと思う。
その原因は何で、何が必要なのか。
思うところを語っていきたいと思う。
他者と社会と
前回は、異性の目について語らせてもらった。
人には、子供の頃から、異性の目を気にする性質が有るようだ。
そして、その性質と、個人主義やフリーセックスが融合した事で、様々な問題が発生したのかもしれないと考えてみた。
しかし、これは、矛盾を生んでいるようにも感じる。
なぜなら、個人主義でありながら、他者を意識しているからだ。
本来の個人主義なら、異性の目も気にせず、我が道を行くべきだ。
だが、現実は、そうではなく、自分の事しか考えていないにも関わらず、異性の目は気にしている事になる。
と言っても、あくまでも、相手から、どう見られているかが、重要課題であって、他者を慮るといった具合ではないが・・・。
当人が、異性と認めた相手の目は気にするが、それ以外の人の目は、全く気にしなくなったとも言えるだろう。
そして、そんな時代が続いた後、異性の目すら、面倒くさくなった人たちが、草食系と呼ばれる人たちではないだろうか。
他者の目は気にしなくても良いのに、異性の目は気にする必要があるという矛盾に、疲れを覚えたのではないか。
では、なぜ、このような人たちが生まれたのか。
それは、人間が、社会性を帯びた生き物だからだと思う。
人は、社会の中で生きている。
そこから外れて、生きる事は出来ない。
かつて、狼に育てられた子供たちが存在した。
この一件は、人が、社会の外に置かれた時、生物学的には人であっても、社会学的には人とは呼べない事の証左と言えるだろう。
要するに、社会の中に身を置いてこそ、人は人として存在する事が出来るのだ。
社会は、他者が必ず存在する世界だ。
他者との関わり合い無くして、社会と呼ぶ事は出来ない。
ところが、個人主義は、他者との関わりは重要ではないと教えてしまった。
それよりも、自分が一番で、自分が重要で、自分こそが全てと教えた。
そんな教育を受けた子供たちは、他者との関わり合い方を知らずに育っていく。
しかし、大人になると、関わり合い方が分からないのに、社会という空間で暮らさねばならない。
彼らは、息苦しさを覚えるだろう。
どうすれば良いのかも分からず、途方に暮れるだろう。
そんな余裕を無くした人たちが、異性の目を意識する事など至難の業ではないだろうか。
そして、安心出来る、勝手知ったる連中と関わるだけに留まり、それ以上の関係性を望まなくなったのだろう。
決められた仕事しか出来ないのも、関わり合い方が分からない為、それ以上の思考(尋ねる、提案するなど)が出来なくなっているからではないだろうか。
同年代の人とだけ関わり合いを持つ人も、同じ事が言えるだろう。
これまでの学校生活で、同年代と関わった経験はあるが、それ以上の年代の人と関係性を持った事がない為、どうすれば良いのか分からないのだろう。
不安を抱える彼らは、個人主義の後押しの元、自分の殻に閉じこもる事で、問題を解消しようとする。
解決ではなく、無かった事にするのだ。
それ以上の方法が見つからない・・・と言った方が良いかもしれない。
そんな若者の相手をする大人たちも、個人主義の沼に浸かっているので、彼らが作り出した殻を破ろうとはしない。
腫れ物に触るような扱いで、放置するだけだ。
そういう時代だからという理由を付けて、殻がある状況が常態だと思い込ませ、無かった事にしているのだ。
叱ればいいじゃないか・・・と思う人もいるだろう。
しかし、叱ると、異性の目が発動する。
異性のいない職場など皆無だろう。
彼らは、惨めな姿を異性に見られたと認識し、耐えがたい恥辱と判断する。
また、自分こそが全ての個人主義も発動する。
この世で最も尊い自分が、どうしてこんな惨めな想いをしなければならないのだと、憤るのだ。
怒りに震える彼らを見て、大人たちは、更に、口を閉ざしてしまう。
悪循環の八十年と言っても、良いかもしれない。
より良い社会を取り戻すには、教育の是正しかない。
原点に帰る。
日本版ルネッサンスだ。
私のような在野の人間ではなく、教育学者や社会学者が声を上げてくれると、心強いのだが・・・。
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