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2023-06-20 人の名前を覚えるのが苦手だということ

吾輩は人の名前を覚えるのが苦手だ。
特に俳優や声優の名前を覚えるのが特段苦手なのだ。
写真を見せられれば、あぁ見たことある!となる人も会話の中で名前だけ出されても「はて?」となるのである。
一方、カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム とかハインリヒ・プリンツ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタインとか歴史上の人物の名前は難なく覚えていたりするのである。

自分ながら不思議な現象である。
なぜかを考えていたら、下記2つの原因の複合ではないかという仮説に辿り着いた

  1. 歴史という一連の流れの中にあるので記憶として引き出されやすい

  2. 人に興味がない

1つ目の一連の流れとして記憶しているので記憶の引き出しになるトリガーが多いという視点。声に出しながら書くなど五感を使ったほうが記憶の定着が良いとか、水兵リーベ…とか泣くよウグイス…とか連想ゲームのように記憶する方法が昔から言われてるので一定この仮説は正しいと感じている。

なにせ年号を覚えるのはめっぽう苦手だけど、何があった結果どう変わったのような流れはよく覚えている気がする。
更にそこから年数や人名や時代を削ぎ落とした抽象化したものを記憶しているので、別のところで構造が似ているからこうじゃないか?みたいな使い方をしている感覚がある。
エンジニア界隈の結構有名な人…誰が言ってたのか忘れたけど、「抽象化することで記憶が圧縮できる」みたいなことを言われてて、なるほど確かに…と思った記憶がある。 (ここでも誰かを覚えていない程度に人名が覚えられない。メガネを掛けてて〜って絵面は覚えてるので記憶が画像なのかもしれない)

2つ目の人に興味がない。正確には他人に興味がない。ってのもよくよく考えると思い当たる節がある

画家でもアーティストでも「この作家」が好きってのが殆どない。
「この作品が好き」とか「この曲が好き」とか作品単位なのだ。
なので「この作家さんのは好きな作品が多い」のような表現になる。

声優や俳優についても同じで、アニメや映画の作品の内容は比較的記憶してるけど誰が演じてたとか、監督が誰だったかってのは目に入ってるはずだけど、殆ど覚えてない。
複数の好きな作品が同じ監督だったとか同じ役者だった時に初めて、その人物の名前が「この作家さんのは好きな作品であることが多い」として記憶されるイメージ。

2つの仮説について書いていて、結局のところ「誰が言ったか」「誰が成したか」ではなく「何を言ったか」「何を成したか」を重視してる性格だと考えると辻褄が合う気がしてきた。

前回 Twitter に居る肩書並べて自己ブランディングしてる人間が苦手。と書いたが根っこは「誰が言ったか」に価値を持たせようとしているのが苦手。というか、「何を言ったか」の方が大切だと思っているので、「誰が言ったか」に支持を集めんとすることが詐欺師とか教祖とかと同じ構造に見えて嫌悪感を抱いているのではないか?と思えてきた。
肩書並べてる人が「俺を誰だと思ってるんだ?」とか言ってるのもめちゃくちゃ嫌いだもんな。

自分に憧れを抱く人間ほど御しやすいものはない。
憧れは理解から最も遠い感情だよ。

どこで聞いた言葉か忘れたけど、まさにこれだと思う。
つまり「誰が」の部分を判断基準にしていることは、「自分で何が良いか」という判断をしてないのではないか。
「みんなが良いと言っているから良い」とか「売れているから良い作品だ」のような自分で判断せずに判断の基準を他人に委ねてる事に主体性の無さとか、「で、君の意見は何なの?」と感じてしまうのかもしれない。

僕の好きな友人である素粒子物理学の教授もイラストを描かせていただいた「放射線について考えよう。」の中で次のようなことを言っていたのを思い出した。

自分で考えることをやめて、他人に判断をゆだねている時点で、その人はだまされても仕方ないといえます。

放射線について考えよう。

誰がって肩書を振りかざしてる人間を肩書を撮ったら薄っぺらい人間とか詐欺師のように思っていて、誰がで判断してる人を主体性が薄くてて苦手だと感じているようだ。

だから名も無いオタクの彼ら/ 彼女らの口で語られる、彼ら/彼女ら自身の高まりから発せられる激重感情ツイートが大好きなのだ。
それは彼ら/ 彼女ら自身の言葉で、まさに「何を言ったか」「何を表現したか」の濃い味がするツイートなのだ。

つくづくオタクやってるくせにアイドルや声優のファンになるとか、熱心な信仰を持つとかに向いてないめんどくせー性格だよなーと思う。
こんな面倒な人間と友達ていてくれる人は大切にしようと思ったのでした。

おしまい。

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