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計画的ニートとは?

ただ、ずっと仕事をしていた私にとっては、伏せこみって、なんだかニートのような気持ちになっており(失礼すぎる)、そんなややエッジの効いたネーミングをつけたものの、改めて見返すと、ちゃんと自分にちょうどいい、とても良い名前のように思いました。



私は常に何かに追い込まれていたように思います。
これをしないといけないなどと、doingにこだわっていました。

そして、そこに気持ちを乗せるのが得意だったのです。
神様に働いてもらいたい時には、何か心を決めて、行動を起こす。
行動をおこせば、神様が働いてくださるような感覚があったのです。
逆に、行動をしなければ神様は働いてくれないとまで思っていたのかもしれない。


それって、今ある健康な体があってこそ。
決めた行動をとれる環境がととのってこそ。
何かが欠けた時に、行動を起こせない要因があった時に、神様に働いてもらえないような、、、
常にある御守護に目を向けず、足りないからこそ行動をとっていたのです。

親神様って、教祖って、本当にそうなのか?
そんなちっさい神様なのか?



いや、違う。
神様って、とっても寛大なんだ。
全てを包み込むほどの親心をかけて下さっている。

今、何にも追われない、好きに行動をとれないという環境で、何を感じるのだろう。
たった1年のニート。
人生のニート。何かをつかんでみたい。
行動ではなく、自分自身の中に、どんな人にもかけて下さる親心を。
みんなに伝えられるようになりたいと思う。

たとえ、行動にとらわれない、そんな世界をつかみたい。

そのままでいいんだ。
それがいいんだ。
何かをしないといけないのではなく、自分の心を高めたいと思う。

そう、beingを磨きたい。外にとりにいくのではなく、今に満足できる、たんのうの世界。
このニート期間を経て、どんな140年祭を迎えられるのか。
先が楽しみ。