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みんな「正しく」怒りたい

 みんな「正しく」怒りたい。
 もっといえば、自分の怒りが「正しい」と思いたい。
 さらにいえば、自分の怒りを怒られたくない。
 自分の怒りは「正しい」のだから怒られるのはおかしい。
 自分の怒りは「正しい」のだから受け入れられるべきである。
 自分の怒りに反論する人は「間違っている」。

 最近のTwitterを見ているとそんな風に考えている人がけっこう存在するように思う。

 自分の怒りを「正しく」見せるために人はどうするかというと、理屈を並べるのである。「これこれこういうわけだから自分は怒っている」と説明する。それに対して反論があれば今度は「データ」や「統計」を提示する。
 つまり、自分の怒りは単なる感情ではなく、理屈と統計に支えられているのだと示そうとする。その矛先が人の属性に向かえば差別になることも出てくるのだが、彼らは「差別ではなく区別だ」と言う。結局その基準が自分ルールだとも気づかずに。自分の怒りは「正しい」のだと喧伝する。

 怒りは人を狂わせる。けれど怒ること自体は自由だ。大事なのは怒り方なのだ。理屈やデータを並べて「正しく」怒っているようで、自分の理不尽な感情を誰かに支えてほしいという願望が滲み出ているような怒り方だって珍しくない。少なくとも自分はそういった「説得力のある怒り」に共感しづらい。
 何より、「感情のままに怒ったら支持してもらえないだろうから、いかに自分が正しいかの理屈を準備しておこう」という魂胆が透けて見える怒りには共感できない。そういった怒りは、会話が成立する。会話が成立してしまうから、揚げ足取り合戦になる。そうしてゴールポストを動かし続け、いつしか目的は「相手を言い負かす」ことにすり替わってしまっている。そんな議論もどきをTwitterでさんざん見てきた。

 先日、「キモいものは、キモい!差別したいものはしたい!」というTweetがTLを賑わせていた。思想はともかく、そのストレートすぎる本音を隠そうともしない姿勢にいっそ感心してしまった。感心したけれど、こういう考え方が主流になると社会は崩壊するだろう。
 怒りや嫌悪は人間に限らずすべての生物の根源にある感情なのかもしれない。しかし、多くの人間はそれを隠すことができるから社会を形成できているのだろう。
 一方で、それを隠せなかった、あるいは前述のように「理屈」や、それを正当化するための「制度」を用意して政治的に嫌悪対象を迫害した国もあった。怒りが「正しい」状況を生み出したのだ。
 当然ながら、そのような行いは全世界から批判され、今では忌まわしい歴史となっている。個人においては黒歴史になるかもしれない。

 Twitterが怒りで溢れかえるようになってどれくらい経っただろう。自分がTwitterを始めた10年前くらいは、「ほかってきます」「●REC」「ほかいまー」「ほかえりー」なんていうほのぼのしている空間だったと思う。
 それはそれで今振り返ると「寒い」とか「痛い」みたいな感想になるのかもしれないけれど、20年前だって「にちゃんねる」で同じ構文をみんなで使っていたもので、いがみ合いだってどこかプロレスみたいなところがあったと思う。

 どうにも、最近のTwitterはジェンダー論や政治論でイデオロギー対立ばかりが目に付く。こんな苦しい世の中だからしょうがないのかもしれないけれど、こんなはずじゃなかったのになぁ、という気持ちである。怒りも何もない。ただの感想だ。

 楽しい話を見たいなぁ。

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