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古畑任三郎とホームズ/世紀末衰退フラグ推理劇

警部補・古畑任三郎は1994年に放送され人気を博した推理ドラマだ。
放送30周年を記念しフジテレビではシリーズを一挙放送することになった。
田村正和演ずる古畑任三郎警部補がその卓抜した洞察力をもって難解極まる犯罪を氷解させていく。
そのわかりやす過ぎる紋切り型が受けて大ヒットとなったコンテンツだ。
脚本は三谷幸喜でありユーモアがいたるところに散りばめられ、低予算で拙い舞台セットと相俟って「笑いながら楽しめる推理劇」という新境地が拓かれた。
また三谷幸喜子飼いの「ダメキャラ」が脇を固めいい味を出しているのも見逃せないポイントだ。

だがこの古畑任三郎の元ネタはあまり知られていない。
今日は古畑任三郎の元ネタなどについて語っていこう。

ジェレミー・ブレッド版ホームズというカノン

古畑任三郎の元ネタは英国・グラナダTV版のシャーロック・ホームズだ。
ジェレミー・ブレッドという古潭の俳優をホームズ役に抜擢して、数多あるシャーロック・ホームズ作品の中でも原典の雰囲気を完璧に再現しているとコンセンサスがある作品なのだ。

オープニングのバイオリンを全面に押し出し悲壮感を漂わせた音楽。
ホームズの低く知性が滲む渋い声。
19世紀ヴィクトリア朝のロンドンを精緻に再現した街並み。
どこを切り抜いても一級品であり日本でもNHKで放送され知る人ぞ知る名作として知られている。
中でもこの「第二の血痕」は白眉の回だ。
「せこいホームズ」という新境地をコナン・ドイルが切り拓いており、大詰めでホームズが用いる「逆トリック」が馬鹿馬鹿しすぎてヤバい。
本当にヤバいんだってば。


さて話しを本筋に戻そう。
古畑任三郎はこのジェレミー・ブレッド版シャーロック・ホームズのオマージュである。

なぜそうなったのだろうか?
説明しよう。

古畑任三郎の脚本を担当したのは三谷幸喜である。
三谷幸喜は大のつくシャーロック・ホームズ愛好家、いわゆるシャーロキアンとして知られているのだ。
そこでフジテレビから推理モノを打診された三谷はシャーロック・ホームズのオマージュ作品を思い描いた。
こうしてオマージュ作品としての古畑任三郎が産声をあげたのだ。



心憎いオマージュの数々

田村正和の演技の節々に元ネタが垣間見える。
例えば古畑任三郎がふかく思索する際に手のひらを擦り合わせる仕草。
これはジェレミー・ブレッド演じるホームズの形態模写である。
たまにこの仕草をさりげなくやっているインテリゲンチャが日本にもいるが、それを見るたびに「ああこの人物とてつもなく賢いんだわ」と騙されてしまう。
それほどホームズが「手のひらを擦り合わせる仕草」は象徴的なモノであり、シャーロキアンにとっては「大切な儀式」なのだ。
だから三谷幸喜はこの儀式を古畑任三郎でも採用した。

他にも元祖ホームズから古畑に移植されたモノは多々ある。
例えば音楽。
元祖ホームズではバイオリンで悲壮感の中に神秘的な雰囲気を宿したメロディが奏でられた。
古畑ではピアノ基調で悲壮感の中に神秘的な雰囲気を宿したメロディが再現されている。
大詰めで犯人を追い詰める際に流れるあの音楽である。



低予算ドラマが三谷幸喜の出世作

古畑任三郎の特徴は「低予算」だということ。
謎解きのシーンなどは舞台を暗転させるという手抜きぶり。
これを舞台効果と見る向きもあるがリアリティはまるでない。

放送されたのが1994年であり、バブルが弾けてコストカットの波がテレビドラマにも覆いかかって来たことが見て取れる。
三谷幸喜ならばそこら辺りもうまくやるだろうという制作者側の思惑もあっての三谷抜擢だったのではないか。
三谷幸喜といえば「振り返れば奴がいる」でテレビドラマ脚本家として名をあげたが、完全にその地位を不動にしたのはこの「古畑任三郎」だ。
とにかく器用に何でもこなす脚本家であり、テレビ局としては使い勝手がよかったためそこから三谷幸喜は重宝されることとなる。
それまでの重厚長大な予算潤沢ドラマから軽妙洒脱な低予算ドラマへの過渡期にあって三谷幸喜の存在は大きかった。
これは1990年代中葉にバブル崩壊が顕著になり、テレビ界隈にもコストカットの波が押し寄せたことと同期する現象である。
換言すればバブル崩壊が三谷幸喜という稀代の脚本家にスポットライトを当てたのだ。



大英帝国と日本/二つの世紀末斜陽

シャーロック・ホームズが活躍した19世紀末のヴィクトリア朝は大英帝国斜陽の時代だ。
大宰相ビスマルクによってプロイセンが台頭し第二次産業革命に先んじ、後塵を拝した大英帝国は相対的に斜陽していったのだ。
他方で古畑任三郎が活躍した1990年代の日本も斜陽の時代だ。
1989年の大納会に38,915円で日経平均がピークアウトし、90年代はバブル崩壊があらわになっていく時代だった。
だからホームズも古畑も繁栄ではなく衰退の中の英雄といえるだろう。

よくよく考えてみれば、
探偵や刑事が躍動する時代というのは、世の暗部が明るみに出る時代である。

「経済成長はあらゆる矛盾を覆い隠す」と云ったのはこれまた大英帝国の宰相チャーチルだが、19世紀末の大英帝国も20世紀末の日本も経済成長が先細りになったという共通項がある。
成長がなくなったためそれまで覆い隠されていた矛盾が明るみに出て、探偵と刑事が活躍せざるを得なくなったのだ。
だからホームズがベーカー街で手のひらを擦り、古畑が東京で手のひらを合わせた。

あの松田優作主演の探偵物語では、探偵が主人公であるものの知的にはまるっきり躍動しなかった。
松田は口先と行動力だけで観るものを誤魔化した。
松田演じる探偵がトグロを巻いていた1970年代は経済が順調に成長していたため、探偵は手八丁口八丁で十分だったのだ。




日本は大英帝国をオマージュできたのか?

古畑任三郎はシャーロック・ホームズをオマージュして大成功をおさめた。
ならばその舞台となった世紀末日本は世紀末の大英帝国をオマージュできたのであろうか。
大英帝国は二つの大戦を経て覇権国家から転落したものの、世界のキャスティングボードを握る存在として依然として大きな影響力を有している。
だから依然として大きな影響力を持ち続けている大英帝国を現代日本はオマージュできているのだろうか?
という深淵な問いを先ほどから私は放っているのだ。
ここまで書いて気づいたのだが、日本にはそもそもそんな大きな国際影響力がなかった・・・・
いやここは気を取り直して、日本にはアメリカに迫る経済力はあったのだから、その経済力を担保できたのだろうか?
いや泥沼にハマりそうだから、この問いもボツだ。
中国に並ばれる間もなくあっけなく抜かれたではないか。

いや我々には世紀末に得た貴重なものが一つだけあったではないか。
こんな風に自虐してみせる叡智を、我々は三谷幸喜のドラマからしっかり学んでしまったではないか。

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