見出し画像

コンパクトシティ栄えて国滅ぶ/効率化半径の考え方

最初に極論を述べよう。
もし「東京が便利だ」という理由によって日本人全員が東京に集結し便利さを享受したらどうなるか?

日本という国家は滅亡する。

これは特に理由を述べなくともイメージとしてわかって貰えるはずだ。

現代日本においてはこの東京一極集中による日本滅亡のミニュア版が方々で起こりつつある。
それは「コンパクトシティ」といわれるライフスタイルの皮を被ったビジネスモデルのことだ。

このコンパクトシティというビジネスモデルは日本という国家を早晩滅亡に導くことになる。
本記事ではまずこの理路を述べる。
その上で「効率化」というビジネス仕事において避けて通れない概念との付き合い方を提案したい。


なおこの記事は、
“”“”日本経済新聞とnoteが共同で開催している「仕事や働き方」に関するお題企画。本日3月19日(火)から5月7日(月)まで「 #仕事のコツ 」で募集します。“”“”という企画への応募作品である。

皆さんは効率化させるための「仕事のコツ」はありますか。タスクに優先順位を付ける、コミュニケーション力を生かしてチームをまとめる、メンタルを整えて自己管理をする……など、皆さんが日々意識している業務を効率化させているTipsをぜひ教えてください!仕事のコツをつかむには、特別な才能が必要というわけではありません。仕事のちょっとしたコツやルールを紹介し合い、みんなでぜひ、業務の生産性を上げましょう。

募集要項における日本経済新聞からのコメント

つまりこの企画では、
仕事を効率化させるための「仕事のコツ」を募集しているのだ。

本記事では効率化には「効率化半径」というものがあり、
「どこまでの範囲を効率化させれば良いのか」を検討していく。
そして「仕事のコツ」としての「効率化半径」を提案する。

では詳細に入ってみよう。

自治体単位で見たコンパクトシティ

駅近にカフェがありドラッグストアがあり総合病院がありスーパーがあり役所の出張所がありホームセンターがあり巨大書店がありユニクロがあり飲食店がしのぎを削る。
こういった町がここ10年でとみに増えてきた。
駅前だけで生活ひいては人生の全てが完結する「コンパクトシティ」だ。

大きなマンションが駅前に立ち並び、どんどんと郊外の人口を駅前が吸収していっている。
こうした自治体ではまず自治体の内部で人口の疎と密が顕著になっていく。

   人口流
駅前  ←     郊外
 密     疎


郊外において人口が疎になり、駅前において人口が密になっていく。
自治体が意図的に郊外で過疎化を引き起こし、駅前における人口密度を高めているのだ。
ここには自治体がインフラ整備を駅前において重点的に行えばよい町をつくり、行政コストを圧縮するという狙いがある。
さらに企業からみても密度の経済が働くため、駅前で出店すれば利鞘を抜くことが容易になる。
これまでは駅前は「人が通過する場所」であったが、コンパクトシティ化によって駅前は「人が居続ける場所」に相転移したのだ。
だから企業ビジネスの観点に立っても、常に人が居続けてくれるコンパクトシティはウェルカムとなるわけだ。
ひいては駅前に住む人々にとっても駅前だけで生活が完結するため、労力がかからず金銭的にも安く上がる。
従って、
ここまでの議論においては「自治体よし」「企業ビジネスよし」「住民よし」の三方良しがコンパクトシティによって実現している。




自治体外部から見たコンパクトシティ


では自治体外部を併せて見たばあいコンパクトシティはどうなのだろうか?
結論から書くと複数の自治体を鑑みた場合、コンパクトシティというものは滅亡のトリガーとなる。
コンパクトシティはおよそ生活に必要な施設ないしそれに類するモノ・コト・ヒト・カネを一箇所に集結させて経済活動を効率化させようという試みだ。
だから企業はより効率化が見込める街や自治体にどんどん引っ越していく。
なぜなら企業は密度の経済がはたらく場所の方が簡単に儲けられるからだ。
したがってコンパクトシティ化が進んだ自治体へと企業は引っ越し、コンパクトシティ化が遅れている自治体からは撤退する。
繰り返しになるがその方が企業としてビジネスとして効率的だからだ。

こういう理路によって、飲食店・スポーツ施設・アパレル・ドラッグストア・大型書店その他諸々といったビジネス施設が昔ながらの自治体から姿を消していく。
いやもう既に姿を消しつつある。
代わってコンパクトシティ化が進行している自治体にはより多くのビジネス施設が軒を連ねることになる訳だ。

ここまでの議論を纏めると、
企業は「より儲かる場所に出店する」という内在論理にもとづき古色蒼然とした自治体からコンパクトシティ化の進行している自治体へと引っ越していく。
その結果、ビジネス施設が整った自治体とビジネス施設が拙い自治体の二極化が起きる。
これが複数の自治体を併せ持っって眺めた場合の風景であり、ここまでの纏めとなる。



止まらない二極化の果てにある衰退と滅亡

一旦、この「栄える自治体」と「さびれる自治体」の二極化が起こるとこの潮流はとまらなくなる。
「ヒト・モノ・コト・カネ(企業ビジネス)」が集まる自治体にはさらに「ヒト・モノ・コト・カネ」が集まり、、
「ヒト・モノ・コト・カネ」が乏しくなった自治体からは我先にと「ヒト・モノ・コト・カネ」が逃げ出してしまうからだ。
ヒトとしてはどんどん便利になっていく自治体で暮らしたい。
カネすなわち企業ビジネスとしては金を落としてくれるヒトがいるところに集まるのが効率的だ。
モノとコトはヒトとカネに付随して動くから、ヒト・モノ・コト・カネが群れとなって移動していく。
だから「さびれる自治体」から「栄える自治体」への引っ越しという潮流はとまらないのだ。

この二極化の潮流は遅かれ早かれ衰退して破綻する自治体を産み出す。
ヒト・モノ・コト・カネが枯渇していく自治体は衰退し滅亡するしかないからだ。

こうしてコンパクトシティという効率化の先にあるものは、コンパクトシティ化の波に乗り遅れた自治体の衰退そして滅亡である。



企業ビジネスから見たコンパクトシティ

企業から見るとコンパクトシティへの流れは願ったり叶ったりだ。
自分たちが特に何もしなくとも、自治体が牽引してヒトが集まる場所を作ってくれるのだから。
本来、人を集めるのは企業努力だ。
その人を集める企業コストなしで人が集まってくる。
この企業コストを自治体が肩代わりしてくれるのだ。

自治体としては負担しなければ企業の誘致は進まないからやむをえずの負担といった風情である。
これほど企業ビジネスにとって美味しい展開はない。
つまりコンパクトシティは企業ビジネスにとって黄金郷エルドラドだと言える。




コンパクトシティと企業栄えて国滅ぶ

ではコンパクトシティ化によって一握りの自治体に「ヒト・モノ・コト・カネ」が集約されていく日本に薔薇色の未来はあるのだろうか。

明確に「ない」

コンパクトシティ化によって栄えていく自治体と企業の裏には、寂れて衰退し滅亡していく自治体が必ず存在する。
その自治体は日本国内の「空き地」となっていく。
この「空き地」を日本国内に増やすことでコンパクトシティは繁栄していると換言できる。
かつて東京への一極集中・一極繁栄が地方の疲弊を糧にしていたのと同様の原理だ。

日本国内の空き地化は、安全保障上すえ恐ろしい問題を引き起こす。
他国との国境に空き地ができた場合、そこに対する国防はおろそかになる。
いやそもそも他国との国境近くというものは元来危険であるから人が住みたがらない。
だから他国との国境近くはコンパクトシティ化によって真っ先に「空き地化」する場所だといえる。
したがってコンパクトシティ化によって真っ先に国境近くの自治体が「空き地化」して、そこの国防が不可能に近づいていく。
国防に必要な資源は「ヒト・モノ・コト・カネ」だが、それら全てを中央に集結させていく試みが「コンパクトシティ化」だからだ。

こうした理路によってコンパクトシティ化という現在進行形の潮流は、一握りの自治体と企業ビジネスを栄えさせて国家を滅ぼすこととなるのだ。




合成の誤謬ごうせいのごびゅう


全員が正しい判断をした結果として、全体が可笑しくなってしまう現象を合成の誤謬ごうせいのごびゅうという。
電車の最前車両が最も改札に近いからといって全員が最前車両に乗ろうとすると、かえって混乱して時間がかかってしまう。
これは「最も改札に近い車両に乗る」という個人としては正しい判断を掛け算した結果、「かえって混乱して時間がかかった」という合成の誤謬の具体例である。

では話をコンパクトシティに戻して、コンパクトシティの問題が合成の誤謬なのかについて考えてみよう。
ヒト・モノ・コト・カネを駅前に集中させて徹底して効率性を追求するのがコンパクトシティの骨子であった。
まず人々が便利な生活をもとめて設備が整った駅前に住居を求めるのは当たり前だろう。
次にモノ・コトは人々がいる場所に移動していくものであるからモノ・コトも駅前に集中するのは当然だろう。
最後にカネつまりは企業ビジネスも密度の経済がはたらき儲けやすい駅前にウェイトを移していくのは必然に思える。
また自治体すなわち行政サイドも駅前だけに投資を集中できてコストを圧縮できるからコンパクトシティは望むところだ。
こうなるとヒト・モノ・コト・カネ・行政のすべてが効率的で正しい判断をしているように観える。
そしてこのコンパクトシティ化が日本のいたるところに空き地をつくっていき、やがて日本を衰退から滅亡に導くことはすでに述べた。

つまりコンパクトシティ化の潮流の中で、ヒト・モノ・コト・カネ・行政の全てが効率的で正しい判断をした。
しかし結果として全体が可笑しくなってしまう。
だからこれは合成の誤謬である・・・
・・・という論法が成り立ちそうだ。



50cmの効率化半径と万人の闘争


だがコンパクトシティ化による日本の衰退滅亡は全員が正しい判断をした結果ではない。
つまり合成の誤謬ではない。
我々は、
「この判断はどこか間違っている」とわかっていながら崖に向かって今まさに突進しているのだ。

人は自分から半径50cmだけを効率化して良しとする動物ではない。
自分から半径50cmだけを効率化させていると他人と衝突が頻発し、いわゆる「万人の万人に対する闘争」状態に陥ってしまうからだ。
このことを人類は学び、その反省から工夫をこらし「半径の大きな効率化」をおこなうようになった。
歴史が下ると共に、
効率化半径が徐々に広がっていったのだ。
自分だけの効率化ではなく、家族の効率化になり、それが村の効率化になり、やがて街の効率化となり、いつしか国家の効率化を担うようになった。

こうして近代国民国家体制において、人々は「国家」という共同体の効率化を担うようになった。
言い換えれば、効率化半径が「国家を包む同心円」となったのだ。



コンパクトシティという効率化半径の逆行

自分だけから家族に、家族から村に、村から街に、街から国家に、
このように時代が下ると共に人類が効率化させる対象範囲はどんどん広くなっていった。
ところがコンパクトシティというライフスタイルないしビジネスモデルはこの「効率化半径」を逆に縮小させる試みだ。
それまで自治体全体や国家にまで広がっていた効率化半径を、駅前にまで急収縮させる試みだ。
人々が効率化させたり幸せを共有する範囲を縮小させるということである。
人類が文字を発明し開始された文明において、効率化半径は概ね拡大してきた。
この文明の法則に逆行するイベントがコンパクトシティだといえる。
いやコンパクトシティというライフスタイルないしビジネスモデルが悪いのではない。
それを手放しで礼賛する人間の側に問題があるのだ。

「半径50cmの効率化」「半径50cmの利益」「半径50cmの幸福」
人々の思考の射程が恐ろしく小さくなってしまっているから、コンパクトシティのいく末にある共同体の衰退滅亡に思いが至らない。
自分が豊かになって国家が滅亡したらいったいどうなるのか?
そこまで考えるだけの余力がない。

効率化半径の縮小と同時並行で慮りの縮小も起こっているのだ。



コンパクトシティとは「文明の逆行」


仕事のコツは効率化だと喧伝されて久しい。
だが効率化の半径について言及されることはまず皆無だ。

効率化を徹底的に追求したビジネスモデルがコンパクトシティである。
このコンパクトシティはヒト・モノ・コト・カネを駅前に一極集中させて効率化を図るというもの。
人々、企業、自治体それぞれが効率化半径を「半径50cm」つまりは「自分だけ」に先祖返りさせているからコンパクトシティは可能になっているのだ。

もし仮に人々が自分から「半径400km」ぐらいの効率化半径をもっていれば、とてもではないがコンパクトシティなんぞは賛同できようはずがない。

これまで特に明治維新以来、我々日本人の効率化半径が急激に拡大してきた。
自分から家族、家族から村、村から街、街から国家といった塩梅の効率化半径拡大だ。
この150年かけて国家単位にまで広がった効率化半径を一気に収縮させる試みが「コンパクトシティ」なのだ。
先人がつむいできた日本人としての紐帯を一世代で解体する試みと言い換えてもいいだろう。
もっと一般化すれば「文明の逆行」だといえよう。
文明とは効率化半径を広くしていく行為だと言い換えられるからだ。




効率化半径を意識するという「仕事のコツ」


では我々はいったいどうすれば良いのだろうか?

コンパクトシティ化という現象は強い勢いで進行している。
だから駅前に引っ越したり駅前に出店したりする行為は個人として効率的なのはまず間違いない。
だが共同体という視点や範囲で思慮する時、コンパクトシティは国家という全体を衰退滅亡させる試みであることに気づける。
国家全体が衰退滅亡してしまっては個人の生存確率は顕著に落ちる。
そもそも国家がなく秩序が維持されないのだから、末恐ろしい世の中だ。

そうならないために出来ることがある。

それは自分がやっている仕事がどれほどの「効率化半径」をもっているのか。
このことを常に意識することだ。


自分だけの効率化になっていないか?
企業だけの効率化になっていないか?
自分の街だけの効率化になっていないか?
自分のやっている仕事は国家という単位において効率化をもたらすのか?



こういった風情で自分の仕事にどれだけの効率化半径があるのかを意識するべきである。
そうすれば後は良心というものが働いて、どこかで歯止めがかかるはずだ。


これが私の提唱する「仕事のコツ」である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?