メタファー

人と人とが、それぞれに固有の世界を持ちながら衝突して、相互に影響を与えあっている。綺麗なものと綺麗なものがぶつかることで透明な破片が生まれ、周囲の光を乱反射させる。これがキラキラ大学生の正体だ。彼、彼女らの発散する輝きに気圧されながら、ゼミの教授の最終講義を聞いた。

講義は私的経験からいかに数理モデルを導いてくるのか、という話が軸になっており、この手法を用いることで、経済学者として社会学、神学、美学といった領域の道場破りに成功したと教授は語った。いきなり数理モデルと言われてもピンと来ないが、数学をメタファーにして私的な経験について考えている人は多いように思う。

例えば、人との関わり方について。振り返ってみると、過去の自分にとって、人と人とは平行な直線で、両者は決して交わることのないものだった。ユークリッド幾何学では、平行線はどこまで行っても交わらないらしい。数学史を見てみると、非ユークリッド幾何学が発見されるまでには、長い年月を要している。この時期を私的経験に落とし込むなら、中学高校時代がこれに該当する。目の前にいながら決して触れることができない他者という存在に嫌気がさしており、創作に没頭していた。ワードに書きなぐった物語の中では、どんな事でも思い通りになり、そこには確かな救いがあった。 創作を通じて人と繋がることができれば良かったのかもしれないが、そこまでの才能も忍耐力もなく、並行な直線だけが走る世界を生きていた。

さて、ここ最近は非ユークリッド幾何学、並行なんて存在しない世界にいるつもり。でも、これはよく考えてみると非常に怪しい。そもそも人と繋がるってどういう状態なのだろう。衝突したような気がするだけ、相互に影響を与えているという思い込み。分かり合えたと思っていたのが勘違いだったり、勘違いで分かり合えないと思っていたり。直線が二本だけの、ボーイミーツガールな、君と僕しかいない世界なら指標も幾つか見つけられそうだが、現実は混沌としている。至る所に曲線、直線、いや直線も曲線なのか、というか、あいつはなんか、点だろ、みたいな。よく分からないけど、人を群や球体と看做してもいいかもしれない。もう何でもありっぽい。メタファーなのだから、何とでも言える。

一転して、学問全般における、モデルを創るという仕事がどれだけの困難を伴うのか、想像するだけで頭が痛い。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?