もしかして理由を探しすぎるのかもしれない


他人はともかく、自分の中では。


昨日はいつもどおり好きな漫画の二次創作漫画を描いていた。
好きな漫画の最新話があまりにも最高だったから、いつも通り、それに即して展開させた漫画。
いつものくだらない4コマではもったいなかったから、ちゃんとコマを割って、セリフを載せたやつ。

内容としては
恋人が昔記念に買って家に飾っていた思い出の品を捨てたことがわかり、買った物が嫌なら嫌でいいけど、それとは別に買いに行ってまた思い出を作ろう。嫌な思い出として物そのものが記憶にならないように。
というまぁありがちな感じの綺麗な話である。


その自分が書いた話でちょっと引っかかる所があった。
思い出の品を捨てた恋人に対してのこのセリフ。

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だから二人で買い物にいきましょう!と提案し、彼の優しさを感じて涙するという展開なのだが、
読み返してもどうにも腑に落ちなかったのだ。

私は漫画を描く時、頭の中で勝手にキャラクターが喋り出してそれを録画するようにメモして清書していく。
だからこそどうしてこんな台詞に繋がるのかがわからないと言うことが多々あるのである。

私が腑に落ちなかったのは、どうして恋人が見るのも嫌だと言ってわざわざ捨てたものにクソお節介を発動させ「自分は嫌だからもう一度買いに行こう」と言い出す事にどうして恋人が泣けるのか?と言う部分だった。

もし自分が恋人の立場なら彼が提案した事に対して多分怒り出すに違いない。
何故なら本当にお節介であり、嫌なものは私は見たくないし、わがままだってわかってんなら黙ってろよとファイティングポーズを構えてしまう。キッズなので。

でも優しさなことはわかる。
エゴではあるが相手が今後嫌な気持ちになる機会を減らしたいという優しさだ。
恋人は精神的にとても大人なので、その優しさの方を先に受け取る事ができ、かつ相手が優しさを向けてくれたことに対して嬉しくなり、泣けるのだ。(泣かすのは私の性癖です)

ここまで整理して言語化した所で私は私をようやく納得させることができた。
そして何故彼らが動いた時に時にそういう会話をして、そういう行動になったのかもわかった。


と同時に、話の中では優しさという名ではあるが「ただ自分が嫌だといった感情で行動する」事に対して自分があまりにも違和感を抱くことがわかったのである。


思い返すと日常のルーティンもそうだ。

「お腹が空いたからご飯を食べる」ではなく「12時になったから」「19時になったから」ご飯を食べる。
「絵をあげたくない」日があっても3日に一度は更新を決めているので少なくとも「3日に一度は更新する」
「これを描きたい」がこちらのネタの方が更新日を考えると早く公開した方がいいので「こちらを先に描く」など。

自分ルールに縛られていると言えばそうなのかもしれない。しかし自分の感情に流されて動くことがあまりにも自分の中で苦手としすぎている。
思えば原稿も毎回イベントに出る前に原稿の目処をつけ、毎日きちんと自分ルールの中で進め、早割で入稿していた。
どうして世間一般的に(?)入稿が遅れる人達がいるのかがわからなかったが、それはあまりにも私が「自分がやりたいからこうする」というのが苦手だからなのかもしれない。決して煽りとかではなく。
描くネタもそうだが、事実に即した物を作るのもこれが原因なのかもしれない。描きたいから描く。ではなく理由を事細かく作って、こうだからこうです。と説明できるようにする事が癖になっている。(冬コミで出したコピー本なんかその象徴なのではないか)

また、同期からプレゼンが得意だとか先輩からは話に説得力があるだとか日常的に評価を受けているが、それは自分の意見や感情を明確化させて「こうだからこうです」と伝えてるからにすぎない。
合理主義というのか。わからないけど。

ただ、感情的ではないかと言われるとそうではない。とても短気だし、よく気持ちが昂るし、絵に関しては(内容はともかく)絵を描きたいから描くという感情で動く事が多い。
ただ短気の内容もルールを破る人間がいただとか、(上司の浮気など)倫理的に間違っているからで怒っていたり、絵を描く事にも仕事に繋がるからとか色々な理由をつけて動いている。

人間の感情は原因・理由があってようやく動く物だが、感情が動くまでの経緯は無意識の動きである。
赤ん坊がいい例だ。赤ん坊がわざわざ自分自身の身に起きたことを言語化はしない。
つまり自分の身に起きた直感的な快・不快のみでコミュニケーションは取れる。もし一方的でも感情を相手に読ませたり言語が話せるなら感じてどうしたいか(感情の先の動作)といったコミュニュケーションをとることで感情の原因まで探らずとも他人とやりとりができる。一方的すぎると周囲から嫌われてしまう可能性はあるが、社会では生きていけるようになっているもののはずなのだ。

そのはず。しかし私は。
常日頃からあまりにも感情が動く原因・理由を探しすぎているし、言語化させてすぎているのではないだろうか?(他人がどうかはともかく、私の周囲の人間と比較すると〜すぎるような気がする)
なんとなく苦手だとか、なんとなく嫌いだとか、なんとなく感動するだとか、なんとなく好きだとか、そう言う事にいちいち理由を探して明確化させて物事を把握しようとしている。他人から性格が面倒くさいと言われる理由もわかる。
だから人と関わったりするのが苦手なのかもしれない。説明したり行動を読み取ったり、いわゆる顔色を伺う事が必須だと思い込んで行動しているため、自分なりに色々考えなければならず、疲れるからだ。

例えば飲み会。感情的に大勢の場にいるのが苦手だと思っていたが、三人以上の行動の時に思考停止して黙ってしまうのもただ脳のキャパシティが追いつかないせいでショートしているのかもしれない。
そのかわり対面だと深い部分まで読み取ることができる。時間をかけれるから。故に友人一人一人とは仲がいいがその友人同士は繋がっていない事が多い。
葬式の時エピソードが噛み合わずみんな気まずくて困るやつだ。まぁそもそもフォロワーは葬式には来れないと思うが。

勿論一概に悪い面だけではなくいい部分もあるとは理解している。
なんとなく楽しい、良い、が明確化できるお陰で良い理由を具体化させ良いものを作る事ができる。仕事に直結する事で自分の中で満足いく給料にもなっている。生きる上でこれが一番メリットとして大きい。
作るものも世界観を説明できるだけで説得力がます。

ただ何がなんでも理由をつけなくても良い気がする。
伸び伸び生きやすくしたいなら尚更だ。

あと逐一説明しない方が漫画もオシャレになるから、それもやめよう。
少なくとも自分から語るのは。


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