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さよなら、にぃまるにぃさん

   今はインドア派だが、子供のころは野球少年だった。小学3、4年生のとき、ソフトボールを始めた。小6時に地域チームのキャッチャー&キャプテンの大役をおおせつかり、小学校区で優勝した。
 地元の公民館で祝勝会が開かれ、ジュースで乾杯したあと、チームメイトに胴上げされた。体が舞うごとに天井が近づいてきたことを今でも鮮明に覚えている。あれが人生のピークだったかもしれない。
 にぃまるにぃさん(2023年)は、まさに野球イヤーであった。ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)での日本代表の優勝、阪神タイガースと我らがオリックス・バファローズのリーグ優勝、そして38年ぶりの阪神の日本一…。球場とテレビでの観戦に、ずいぶん時間を費やしたものである。
 3月6日のWBC前哨戦で、日本代表 vs. 阪神タイガースの試合を観に行った。大谷翔平が、ライトスタンド上段看板を直撃する特大ホームランを含む、6打点を放った日である。以後、彼のWBCや大リーグでの活躍、ドジャーズへの移籍はご存じの通りである。
 生まれ変わったら誰になりたいか? 叶うことなら大谷翔平になりたい。それが無理なら、山本由伸でお願いします。

大阪市内のパン屋のアルバイト募集の貼り紙

 7月中旬、よく行くパン屋のガラス壁に、アルバイト募集のポスターとともに、「アルバイトは、外国人の方おことわり!!」と書かれた貼り紙が掲示されていた。同じ内容が、朝鮮語と中国語でも書かれている。
 コンビニをはじめとする労働現場で、外国人を見るようになって久しい。そんな時代に、このような貼り紙が堂々と貼られていることに、心底驚いた。
 たとえばコンビニで、私は外国人の応対に不満を持ったことは一度もない。一定程度の語学力やコミュケーション能力を有する外国人が働いているからであろう。「外国人の方、おことわり」と彼らをシャットアウトしてしまうのは、時代錯誤もはなはだしい。
 フェイスブックで、この貼り紙の写真をアップすると、非難の声があがった。問題視するのは私だけではないようだ。
 無粋な貼り紙を見てから、どうにも腹の虫がおさまらない。いかに対処すべきか。ツイッター、公的機関への通報、直談判…。いろいろ方考えた結果、まずはライターらしく手紙を書くことにした。
 外国人にも日本語が達者な人はいくらでもいる。彼らに働く機会を設けるのは当たり前ではないのか。外国人はなぜダメなのか、その理由を教えてほしい…。そうしたためて送ったが、返事はなかった。

 フェイスブックを通じて貼り紙を知った知人は、パン屋の近くに住み、私と同じ疑問を抱いていた。私が手紙を送ったことを伝えたので、彼は自分も何かしなくてはと思い、パン屋に電話して店主に話を聞いた。以下は店主の言い分である。
「言葉が通じなかったら、販売ができないのが(断る理由の)一つでね。(彼らは)会話ができひんのですわ。だから貼り紙してる。(大阪市)西区は外国人の方が多いんですよ。特に韓国人とか中国人の方が。差別とか、そんな次元の問題ではないです。私個人の判断で採用するかせえへんかの問題ですから。言葉が通じなかったら、難しいやろなと。差別してるわけでも何でもないですよ。私は一応、(創価)学会員ですので。差別とか、そんなニュアンスのことを言われたら、ちょっと胸に突き刺さるところありますので、そこのところを気を付けていただければ幸いかなと思います…」
 言葉ができない外国人は、アルバイトとして雇えない。しかしそれは差別ではない、と言い張る。では日本語の達者な外国人はどうなのか? という疑問が再び思い浮かぶ。
 店の壁には公明党のポスターが貼ってあるので、言われなくても店主が学会員であることはわかる。差別ではないかと問われて、学会員には気を付けてものを言えとは、よく言えたものである。
 えてして差別者は、自らの思考や行動に無自覚である(私を含めて)。学会員なら差別をしない、それに敏感であるかのような発言は、笑止千万である。ならば外国人やマイノリティの立場も考えよ、と申し上げたい。
 

 問題の貼り紙は、私たちが行動を起こしてから、すぐにはがされた。心の中のモヤモヤは薄れたものの、何だかすっきりしない。あの店主は私たち2人に対処しただけで、納得してはがしたわけではない…。そう思うのである。
 それから数か月後、店主に電話で抗議した知人が、「あの店、テレビに映ってましたよ」と教えてくれた。スマホに送られてきた写真を見ると、関西テレビのバラエティ番組『ごきげんライフスタイル よ~いドン!』の人気コーナー『となりの人間国宝さん』で紹介されていた。早朝から深夜まで営業する格安のパン屋として好意的に…。
 何が、ごきげんライフスタイルやねん! 何が人間国宝やねん、 となりの排外主義者やないか! と思わず毒づいた。写真をよく見ると、なんと店主は私と同い年(60歳)である。
 その数日後に店の前を通ると、「品物は売り切れました」と書いた紙が貼り出されていた。店主の思想を知らない視聴者が押しかけたのだろう。
 私は関西テレビに、「あの店、外国人差別してた店ですよ」とよっぽど伝えようと思ったが、やめた。店主の思想・言動までは知らないだろうから。
 差別貼り紙を見つけて以降、私はあのパン屋を利用していない。これからも、買うつもりはない。そして、声を大にして言いたい。
「差別パン屋、おことわり!!」

 8月初旬、部落問題の講師として、島根県に泊りがけで行った。仕事を終えた夜、地元の伊藤ランさんが、夫のユタカさんを伴って食事に誘ってくれた(いずれも仮名)。ユタカさんは私と同い年、ランさんは7歳上である。
 海の幸をいただきながら、二人のなれそめを聞いた。被差別部落出身のユタカさんは中学校を卒業後、大阪で寿司職人になるも長続きせず、職を転々とした。上司にある場所へ行くことを命じられ、こう言われた。
「まっすぐ行って、まっすぐ帰ってこい!」
 あとでそこが被差別部落を含む地域であることがわかる。” 部落は怖い ” という偏見・差別があることを都会に出て初めて知った。
 二十歳のとき、故郷に帰り、スナックの店員として働いた。そこでDV夫と離婚し、3人の子供を育てるために働いていたランさんと出会う。
 やがて恋仲になるが、一方は二十歳で部落出身、一方は3人の子連れで7歳上。案の定、ランさんの両親がユタカさんの出自を問題にし、結婚に反対した。ランさんは親の反対を押し切って、ユタカさんと一緒になった。以後、両親とは疎遠になる。
 ユタカさんは、子供を作らないことに決めていた。連れ子よりも我が子をかわいがることを恐れたからである。しかしいざ自分の子をさずかると、それが杞憂であったことがわかった。どの子もかわいくて仕方がない。平等に愛情をそそいだ4人の子は、競ってユタカさんの膝の上を奪い合った。
 7年前にランさんは還暦を迎えた。社会人になったり、結婚したりして全国に散らばった子供たちが故郷に集い、彼女を祝った。
 後日、家族全員で撮った記念写真をランさんが母親に見せると、ユタカさんに会いたいと言い出した。幸せそうな家族写真を見て、結婚に反対したことを後悔している様子だった。あれから30年余りが経っていた。
 何を大事にするか、しないかで、得られるものと失うものがある。最後は心地よく酔いながら聞いた、ある夫婦の物語である。

 9月7日、現代音楽の作曲家の西村あきらさんが、右上顎ガンで亡くなった。享年69。
 年に数回、大阪・いずみホールでおこなわれる連続講座『クラシック音楽の愉しみ方』の講師を務めた。一人の作曲家の生涯と楽曲を解説し、ゲストに演奏してもらう好企画である。
 話術にすぐれ、語りがそのまま活字になる人だった(フリーライターはそういう基準で人の話を聴いている)。作曲家や楽曲の魅力を余すところなく伝える、理想的な講座だった。しかも、野口英世ひとりだけの破格の価格である。
 1月18日には、ドビュッシーを取り上げ、私はいつもの西村節を堪能した。12月19日には、ドビュッシーとほぼ同時期に活躍した、フランスのロマン派のモーリス・ラヴェルを取り上げる予定だった。
 私はラヴェルのピアノ協奏曲を聴き、クラシック音楽にのめり込んだので、早々にチケットを買って楽しみにしていた。この企画を世界中の誰よりも望んでいたのは私だろう。
 1月の講座は、まったく普通にこなされていたので、訃報に接したときは絶句した。ご冥福をお祈りしたい。

 秋口に、いつもの理容室で髪を切った。カット、顔剃り込みで1700円也。
 最後に理容師が、頭部の後ろを鏡越しに見せてくれる。驚いた。頭頂部が広範囲にわたって焼野原になっているではないか。まるでフランシスコ・ザビエルのように。
 頭頂部に、火の粉が舞っているのはうすうす、、、、気付いていたが、まさかここまで…。
 人の焼野原はよく見えるが、自分のそれは視覚に入りにくい。まさに、死角だった。しばらく椅子から立てなかった。老いが天上から、遠慮なく襲い掛かってきている。想定外の「老いるショック」(©みうらじゅん)だった。
 ただ、寿ことほぐぐべきことが、一つだけあった。このとき私は60歳になったばかり。この歳から、料金が200円安くなる。私はおもむろに椅子から立ち上がり、割引カードを持って精算に向った。老いるショックが、ほんの少しだけやわらいだ。
 そういえば1年前の誕生日に、思い切って髪を派手に染めてやろうと思い立ったことがあった。同じ理容室でそれを告げると、白髪染めの準備にかかるではないか。
「いや、お兄さんみたいな、茶髪にしようと思うんやけど…」
 若い理容師に念を押すと、いろいろ理由をつけてやめたほうがいいですよ、と言われた。果敢に攻めるつもりが、あっけなく撤退を余儀なくされた。かくして私の還暦前イメチェン作戦は、もろくも崩れ去ったのだった。
 そうそう、60歳になると、映画館の入場料も安くなる。1900円が1200円。こっちは700円もお得だ。ようし、映画を見まくるぞ~っ! そう決心したものの、まだその特典を利用しきれていない。老いのもちぐされ、である。

 晩秋の日曜日に、小学校の同窓会が開かれた。小学校卒業が70年代半ばだから、およそ半世紀前である。
 兵庫県加古川市内のホテルの料理屋に、22人が集まった。6年生は5クラスあり、うち3クラスの担任教師が来てくださった。
「角岡君って、エクボがかわいい子やったね!」
 幹事の元女子が、入口でそう言って迎えてくれた。そう、私はエクボがかわいい少年だったのだ…。
「角岡君は、同窓会には来ないタイプだと思ってた」
 別の元女子に、そう言われた。ひねくれ者だったよね、と言われたも同然である。
 同窓会は、物故者の黙祷から始まった。あとで確認すると、わかっているだけで5人(全員男)が亡くなっていた。それもあって、学年単位の同窓会をやろうという話になったらしい。
 代表幹事の挨拶によると、私たちは1970年の入学。その2年前に神戸製鋼加古川製鉄所が開所し、人口はうなぎのぼりに増えていったが、母校の小学校は、現在は1学年1クラスだけだという。5分の1ではないか。少子化の高波は、わがふるさとにも押し寄せていた。
 ちなみに神鋼加古川製鉄所には、元首相の安倍晋三がサラリーマン時代に勤めていた。それが何やねん、という話だけれど…。

 3人の担任教師が挨拶されたが、私が所属していた1組の田中ヨシコ先生(仮名)は、開口一番こう言われた。
「私は教師になってまだ数年でしたが、1組の担任は本当に大変でした。特に角岡君! トイレに入って泣いたこともあります。何食わぬ顔をして教室に戻りましたけど。彼は教室中に、紙を貼りめぐらしていたこともありました…」
 私はそれをよく覚えている。図鑑を見るのが好きで、夏休み明けだったか、各都道府県のデータや地形、マークを半紙に書いて教室中に貼りまくった。けったいな少年である。今でも都道府県の地形やマークは記憶している。
 数年前に大相撲を観戦した際、行司の装束に神奈川県章がデザインされているのを見て「アッ」と思った。
「あれ、神奈川県のマークやで」
 隣りにいるカミさんの北川景子(仮名)に言って、スマホで調べたそれを見せると、「へえー」と感心された。あらためて、変な人と思われたかもしれない。
 それはともかく、担任の田中先生には、「たいへんご迷惑をおかけして、すみませんした」と謝るしかなかった。先生は赦してくれた。半世紀ぶりの和解である。

 にぃまるにぃさんも残すところ数週間となった師走のある日。大学の後輩から、悲しい知らせが届いた。私もメンバーだった「障害者」解放研究部(「障」解研)に所属していたS君が、脳梗塞で亡くなったという。すでに身内で葬儀も済ませたらしい。私より少し下だから、まだ50代後半である。
 S君は、高校時代のラグビーの試合中に頚髄けいずいを損傷し、首から下の自由がきかなくなった。80年代半ばには、その巨体を電動車いすに乗せ、実家から理学部に通っていた。
 大学のコンピュータ室で、ワープロの打ち方を教えてもらったことを覚えている。自宅を訪問した際に、寿司の出前をとってもらったが、腹いっぱいになったので、残りをティッシュで包んでジャケットのポケットに入れたら、水分がにじみ出て恥ずかしかったことも。
 大学卒業後は、介護派遣事業やヘルパー養成に携わっていた。2年前に、「障」解研のメンバーだったY君が肺ガンで亡くなり、通夜でS君と会ったのが最後だった。
 ここ数年は、次々と戦友が立ち去っていく。生きるとは、大事な何かを得たり、失ったりすることであると痛切に思う。年齢を重ねると、後者の方が多いような気がする。
   さよなら、にぃまるにぃさん。 <2023・12・31>
 

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