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ヴァイオリニストの音楽案内100~読む本に困ったら見よ~

 私はブログ投稿とともにNOTEの投稿を行っている。
そこで、今回はチャイコフスキーについて記した自前の記事をここで紹介しようと思う。
なぜチャイコフスキーか。
私が頻繁に聴くクラシック音楽に彼の協奏曲があるからという理由もあるが、やはりこの本でも紹介されていたことの影響も少なからず受けているからという説明が適しているだろう。
では自前の記事を引用する。

「日々の暮らしにクラシック音楽」では読者の皆さんにクラシック音楽についての知識を共有しつつ、隙間時間に音楽を聴いて満喫しようというビジョンの元作成することに至った記事である。

私はクラシック音楽について専門的な知識を持ち合わせていない。
しかし、記事当行の継続力だけは自信がある。
そのため、引用文がほとんどであろう。もちろん引用先のURLなどは掲載するため、そこから確認してもらっても構わない。

ちなみに読者が多数ついた場合には、何年でも継続していくつもりだ。
(クラシック音楽に関するものや音楽を聴きながら楽しめるものの広告を貼らせていただく。ここから購入していただけると、私の貴重な収入となり非常にありがたい。)

さて、今回は記念すべき第一回目の記事投稿である。
やはり幕開けはベートーベン・・・と思いきやチャイコフスキーから記していこうと思う。


というのも、私がクラシック音楽に興味を持ったきっかけがチャイコフスキーのバイオリン協奏曲ニ長調作品35である。

私はこの曲にはまり何度も何度も聴いたことだ。
そして、あることに気が付いた。
演奏者によって同じ曲なのにも関わらず、曲の「味」が違うということだ。
私がクラシック音楽に脅威を持つようになったきっかけはこの衝撃にもある。そして、「のだめカンタービレ」の影響も受けてのことだ。

では実際に聴き比べてみよう。

髙木凜々子さんによる演奏

高木凛々子さんは東京都出身の女性バイオリニストです。

3歳の頃よりバイオリンを始め、小中学生の頃より数々の大会で優秀な成績を納めています。

小学生に上がったぐらいの頃は、バイオリンの厳しい練習が大嫌いで、家に帰るとレッスンが始まるため、放課後もずっと校庭に残って遊んでいることが多かったそうです。しかし、小学4年生の時には将来はバイオリニストとして生きていくことを決めています。やはり、早いうちから将来を見据えて頑張っていたことが、今の彼女の実力の高さを裏付けているようです。

大学時代は多くの音楽の道を志す学生たちと交流したことで、自身の音楽の幅が広がったと語っています。大学3年生の時には、バルトーク国際ヴァイオリンコンクールで2位を受賞しています。

これまでに星はるみ氏、篠崎功子氏に師事しており、現在は清水髙師氏に師事しています。

高木さんの実力は折り紙付きで、数多くの場で輝かしい実績を残されています。

バイオリニスト髙木凜々子のプロフィール。経歴は?結婚してる?家族は?演奏の実力や評判は? | クラシック音楽ファン (classical-music.fun)


次は後藤みどりさん

五嶋 みどり(ごとう みどり、欧文表記:Midori[1]1971年10月25日 – )は、日本で出生したアメリカ合衆国ヴァイオリニスト[注釈 1]国連ピース・メッセンジャー相愛大学客員教授。母は五嶋節、17歳年下の異父弟はヴァイオリニストの五嶋龍大阪府枚方市出身。2歳の時、ヴァイオリニストであった母・五嶋節が数日前に練習していた曲を正確に口ずさんでいたことからその音楽的才能を見出され、ピアノのレッスンに通わせたが、3ヶ月程で挫折。母方の祖母が、3歳の誕生日プレゼントとして、1/16サイズのヴァイオリンを買い与えたのを機に、母親が少しずつ、指導を始めるようになる。3歳半より、読譜を含む本格的なヴァイオリンの早期英才教育が始まる。6歳の時、大阪で初めてステージに立ち、パガニーニの「カプリース」を演奏した。

1980年、8歳の時、演奏を録音したカセットテープジュリアード音楽院ドロシー・ディレイ教授に送り、入学オーディションに招かれた。周囲の反対を押し切り、1982年、母に連れられて渡米、ジュリアード音楽院において高名なディレイ教授の下でヴァイオリンを学ぶ(入学オーディションではバッハの「シャコンヌ」を通しで演奏して審査員を驚かせた)。同年12月31日、11歳で、ズービン・メータ指揮のニューヨーク・フィルハーモニックパガニーニの「ヴァイオリン協奏曲第1番」第1楽章で「サプライズ・ゲスト」として協演して米国デビュー。日本でもニュースになり、「天才少女デビュー」という見出しで報道された。

五嶋みどり - Wikipedia


 また、演奏者の経歴を知ったうえで演奏を聴くとより一層味が増す気がするのは私だけであろうか。


では最後にチャイコフスキーの生涯について触れて第一回の記事を締めくくる

チャイコフスキーは1840年に現在のロシアで生まれました。幼少の頃から音楽を始め、才能を示しましたが、両親はチャイコフスキーを音楽家にする気はなかったようで、10歳になったところで、サンクトペテルブルクの法律学校に通うことになりました。1859年にその法律学校を卒業し、法務省に勤務します。しかしながら、チャイコフスキーはこの官吏としての職務には熱意を持って仕事をすることはありませんでした。

チャイコフスキーが本格的に音楽を学ぶようになるのは1861年のことでした。音楽教育をおこなっているロシア音楽協会のクラスに入学し、音楽の世界にのめり込んでいきます。1863年になると法務省を辞職し、音楽に専念するようになりました。大作曲家で、ここまで音楽を学び始めるのが遅いのはかなり珍しいと言えます。チャイコフスキーは1865年にペテルブルク音楽院を卒業し、1866年からロシア音楽協会で教師となります。この職を彼は12年間勤めることとなりました。これ以降チャイコフスキーはモスクワを拠点として活動することになります。

1877年にチャイコフスキーはアントニア・イワノブナと結婚をします。しかしながら、この結婚は結局失敗してしまい、彼は自殺を図るほど精神的に追い詰められてしまいます。これを機にチャイコフスキーはモスクワを離れ、ヨーロッパ全域で活動をして生きます。そして、1893年、交響曲第6番『悲愴』を初演し、その9日後に急死します。

チャイコフスキーのおすすめ名曲10選を彼の生涯や逸話とあわせてご紹介。 | VOKKA [ヴォッカ]


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