見出し画像

音楽を続けること その1

日本に帰って来てからアメリカに暮らした時より長い年月が流れた。48歳になった。16歳でアメリカに初めて行った時、既に将来音楽の道に進みたいと思っていた。まだ何も知らない、何も弾けない頃何故か自信に溢れていた。若かりし頃、というのは誰しもそんな部分があったろう。通うことになったオハイオ州の高校で熱心なジャズバンドの指導者に出会った。その先生の学生時代からの親友、Mark Vinciのカルテットを聴いた。そのメンバーのピアニストからマンツーマンで1週間指導を受けた。
高校のバンドで参加したフェスでBobby Watsonと彼の新曲を演奏した事もある。カリフォルニアでは音楽からずいぶんと離れていい加減な暮らしをしていた。
途中から通い始めたコミュニティカレッジで再びジャズの素晴らしさに触れた。Poncho Sanchezのバンドで長年ピアニストを務めた鬼才、Charles Otwellともここで出会った。そしてピアノの基礎から組み上げて行きたいと思ってフランスの学校でクラシックの基礎からやり直したいと本気で考え資料を取り寄せたり言葉の勉強をしていた。直前でやはりジャズの学校に行こうと決めて東海岸に移った。
バークリーに行き、足元にも及ばないすごい才能を何人も目の当たりにしてショックを受けた。
学べば学ぶほど、練習してセッションに通えば通うほど自分の出来なさ加減、足りないものばかりどんどん見えて来て何度も絶望感を味わった。卑屈にもなった。外に出てからも同じ。演奏の仕事も無く仕送りも無かったので金も無く、アルバイトを沢山した。
電子ピアノすら買えなくてボストン及び周辺の大学に忍び込んで練習した日々もある。以前はそれでも学生時代のIDカードを提示してバークリーで練習室を借りる事が出来たがある時から有効なカードかどうかスキャンして確認するようになってしまい学校で練習は不可能になった。夕方以降に受付で働いていた女性は僕の境遇を知ってか知らずか日によって練習室として一般学生に開放していない部屋を教えてくれる様になった。就労時間中は鍵を持つ彼女はひそかに鍵を開けてくれたのだ。言い表せないくらいありがたかった。しかしバイトのある日は朝から晩まで働いてバークリーの最寄り駅に着くのは23:30。
そこから開放された教室のピアノで練習を始めると23:45にはセキュリティがやって来てもう閉めるから出るように言われる。つまりは15分に満たない練習、とある2年近くの間平日のほとんどはそんな練習しか出来なかった。最初の内はやはり落ち込んだ。自分よりずっと先を歩くピアニストが何倍も練習して更に遥か彼方へと進む同じ時に自分は油にまみれ毎日限界までバイト、レッスンも練習も無く、疲れ切って気を失う様に眠り落ち、翌朝遅刻しかけて飛び起きる。時折、一体何をやっているのだろうか?とそんな人生に疑問も感じた。
それでもともかくバイト後の15分の練習をやめなかった。学生時代7〜8時間も練習室に閉じこもっても時間が足りない、練習が足りない、と焦り、いつもイライラしていた僕がこのたった15分の練習で出来ることなどたかが知れて居た。だから仮にスケール練習ならばたったひとつだけ同じキーで数回弾く。丁寧にやるならばより僅かな事柄しか出来ない。馬鹿馬鹿しいと思う日もあったし学校に寄らずそのまま家に帰りたい気分の日もあった。
しかしその頃僕にとって音楽の時間はその15分しか無かった。だからともかく続けたのだ。
どのくらいかかったろうか、
いつしかその15分が楽しみになった。僕はその23:30からの15分間に向かって日々アルバイトに通った。
そしてたった2ページの易しいクラシック曲を覚えるまでに2ヶ月かかっても気にしなくなった。
バイトの行き帰りに乗る地下鉄の中で沢山の音楽を集中して聴いていた。Kenny Wernerの著書、effortless masteryに出会ったのもその頃。本を読みしばらくしたころ初めてKennyのライブを観に行った。ケンブリッジ郊外のSandrina'sという店だった。後に知ったがマフィアが経営に関わる店で様々ないわく付きの店だそうだ。
ともかくその店でGeorge Garzone、John Lockwood、Bob Gullottiからなる"Fringe"
そしてKennyという夢のようなライブだった。
2日間のライブで2日とも聴いた。2日目の終演後、勇気を振り絞りKennyにレッスンを乞うた。
最初のレッスンでKennyは僕に
君は本当に上手くなりたくて仕方がないんだね、と言った。それから上手くなる、その想いを捨てて、本気で諦めろ、と言った。そこからしか何も始まらないんだよ、
と言った。
本の中でも同じ様な事を書いているが直接僕の演奏を聴いたKenny本人から面と向かって伝えられると僕は泣いてしまった。
困窮し、挫折感に包まれ、ピアノも無い、15分しか練習出来ずにバイトに明け暮れすでに3年近く経っていたのだ。Kennyは静かに君はもうこれ以上上手くならないと知ったらピアノを辞めるのかい?と訊いた。
そうか、違う。
僕はピアノが好きだから、音楽が好きだからやっているんだ。上手くなって認められるために始めた訳じゃ無い。その事を思い出した。
それから不定期ではあったがKennyのレッスンを受けた。Kennyの言葉はいつしか僕自身の言葉になって行った。
ある日を境に、ということは無かった。
しかし、僕が僕の境遇、僕自身を少しずつ受け入れて行くのに合わせたかの様に少しずつ人生は動き出した。既にビザを失効しいわゆる不法滞在に陥っていた僕にアーティストビザが降りた。
仕事もなんとか暮らせるくらい入るようになってきた。
とある市の社会人学校で短期の講座を持った。
憧れ、畏れが入り乱れたクラブWally'sのセッションホストになった。金曜日や土曜日の夜Wally'sのライブにピアニストとして呼ばれる様になった。
そこで一緒だったミュージシャンたちが他の仕事もくれる様になった。以前数ヶ月間自宅で毎週リハーサルに呼んでくれたが当時の拙い僕に見切りをつけた(皮肉でも恨みでもなく本当に何も出来なかった)
とある先輩ミュージシャンが同じ人物と知らず仲間からの紹介で仕事のオファーをくれたこともある。
いつしか想いはニューヨークへと向かった。
2度目のアーティストビザの書き換えが認められてNYに引っ越す準備を具体的に始めた頃、
最初に離れてから15年になる日本の実家から
父が余命4ヶ月だという連絡が来た。
そんなふうにして長いアメリカ生活は終わった。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?