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「ジャムセッション」の話



僕はジャムセッションがとても好きだった。学生同士のセッションは毎日の様に学校のあちこちで行われていた。そういうセッションもまあ楽しかった。
ボストンの片隅にあるWally'sは歴史ある店でいつの時代もボストンの若いミュージシャンが研鑽を積む場だった。
95年、僕がバークリーに通い始めた頃はその辺りの地区はまだまだ治安も悪く学校の先生たちは余り行く事を進めない、そんな場所にあった。
Wally's自体のイメージも当時はまだなんとも"都市伝説"の様に独り歩きしている、そんな印象だった。例えばバークリーで高い評価をもらった学生がWally'sのセッションに"挑戦"に行き
こっ酷く返り討ち、Ass-Kickedされた、、。
黒人ミュージシャンたちが中心のその店にインテリ風の白人ミュージシャンが行くといきなりテンポ350でCherokeeをBのキーで始められて何も出来ずにすごすごとステージを降りた、、
などなど様々な噂話があった。
バークリーに入って間もない僕ら学生はそんな話を時折しては憧れとも恐怖ともつかない想像を膨らませた。

さて僕が初めてそのWally'sに足を踏み入れたのはバークリー音楽大学に通い2年程経つ頃、
仲の良かったサックス奏者のリサイタルに参加した事があった。彼は早いうちからWally'sのライブを観に行きそこで定期的に演奏していた後にかのモンク・コンペティションで優勝したトランペッター、ダレン・バレットの
個人レッスンを受けていた。
リサイタルには僕以外には当時NEC(ニューイングランド音楽院)に通っていた別のサックス奏者とドラマー、ベーシストも参加していた。
全員Wally'sでライブやセッションホストもしていた。そんな関係もありそのリサイタルを観にダレンが来た。やはり当時ダレンの生徒であった若かりし頃のクリスチャン・スコットも一緒だった。このリサイタルに向けてリハーサルが3,4回あったのと当時本当にあらゆる自信の無かった僕は文字通り寝る間も惜しみ必死で練習した。
初めて取り組む曲ばかり、アレンジもソロチェンジも難しいものだったが
その日僕は中々良い演奏をすることが出来たのだ。リサイタル後、共演者、聴きに来ていた沢山の学生から賛辞をもらいとても前向きな気分になった。数日後リサイタルのリーダーであった今は韓国のジャズシーンで活躍を続けるサックス奏者、ソン・ソンジェが「ダレン・バレットがあのピアニストは中々良いから週末のWally'sのライブに遊びに来る様に、と言っていたよ」と僕に言った。僕はすっかり浮き足だって、週末がやって来るのを待ち侘びた。
土曜日の晩ソンジェと待ち合わせして飯を食い、歩いてWally'sへと向かった。店の前にも人だかり、入り口には身体の大きなバウンサー、用心棒が入店する人のIDチェックをしていた。
店に入ると更に沢山の客で店はぱんぱんになっていて人を掻き分けソンジェがステージまで辿り着き僕も連れて来たことをダレンに伝えた。
ステージからダレンは軽く目で"hey"と僕に挨拶してくれた。
先にソンジェが飛び入りして数曲演奏するとダレンはマイクで僕をステージに呼んだ。
ホストピアニストは同期ではあったが当時から大活躍していたミラン・ミラノヴィック、
ベーシストはちょっと忘れてしまったがドラマーはその頃からぐんぐん有名になっていった
当時ボストンに来て間もないケンドリック・スコットであった。
ダレンは僕にリサイタルでやっていたスタンダード、"The end of a love affair"をやろうと言ってカウントを始めた。
確かにそのリサイタルで特にリラックスして弾けた曲であった、、が
カウントするテンポはリサイタルよりかなりの速さでカウントを始める寸前に僕に「キーはGだ」
と囁いた。リサイタルで僕が覚えたのはF、
ただでさえ浮き足だっていた僕にテンポ、そしてキーの違い。スタートと同時に周回遅れの僕の前にダレンは小さなメモくらいのリードシート(コード譜)を置いてはくれたが完全にロストしている僕にはもうどうすることも出来なかった。
自分がまるで水中に潜っているかの様な、何も聴こえてこない様なまま演奏は終わり再びマイクを持ったダレンはソンジェに僕の名前を確認してから「Jun san!! みんな拍手を!」とコールした。
薄暗い店内であったがおそらく真っ赤な顔で、
恥ずかしさ、悔しさに震えながら僕はWally'sを後にした。
それが僕が初めてWally'sに行った日の思い出だ。


僕がその次にWally'sに行ったのはそれから更に2年近い月日を経てからだった。
僕の人生はあれからちょっとばかり複雑になり
バイトしながらもなんとかボストンで音楽修行しながら生活していた。ある日意を決して再びあのWally'sの、今度は日曜日の午後から開かれてる
セッションに行く事を決めた。
4時スタートのセッションに間に合うように到着すると週末の夜には隙間もない程混雑する店の中はがらんとしていた。ホストミュージシャンたちが3人ステージでセッティングしていた。
ドラマーはビブラフォン奏者の筈だったウォーレン・ウルフ。後の世界的ビブラフォン奏者だ。他は初めて見る顔だった。
学生時代特に交流があった訳では無いがウォーレンは僕に気づくと「ピアニストだよな?」と言ってくれた。そしてもう始めるが先ず少しホストミュージシャンだけで演奏してからセッションになるから、と説明してくれた。
4時をまわっていたが僕以外にはあと2人、参加者らしい人がそれぞれ少し離れて座っていた。
ホストミュージシャンたちの演奏は僕の背筋がシュッと伸びる様な素晴らしいものだった。
早速ウォーレンは僕に声を掛けてステージへと呼んだ。「何をやりたい?」と訊いた。
僕は覚えているスタンダードをコールし、演奏した。一曲弾き終え「ありがとう」と言って立ち上がるとウォーレンはそのまま残る様に僕に言った。1時間半くらいそのまま弾いていた。
4〜5曲位だろうか。幸運なことにコールされる曲は皆僕が覚えている曲ばかりだった。
しかしその次にコールされた曲は知らない曲だった。正確に言うと知っている曲だがまだ覚えていない曲だった。「リアルブックある?」と僕が訊くとウォーレンは「知らないなら俺が弾くから」とドラムから離れた。参加しに来ていた別のドラマーに叩かせ何とピアノを弾き出した。
その演奏の素晴らしいことと言ったら!
唖然となってしまった。
その後他にもピアニストが数人やって来たので
僕はもう弾くことは無かった。

翌週もまたそのセッションへと出かけた。
先週覚えて無かった曲も一週間練習しメロディとコードチェンジも覚えていた。
皮肉なものでその日その曲はコールされなかったが笑。そして毎週通ううちに
ウォーレン以外のホストミュージシャンたちとも少し話したりするようになった。トランペッターはジェイソン・パーマー、ベーシストは基本的に忙しいので毎週違っていた。
当時はNECやバークリーの学生も少しずつセッションに来ていたが卒業してボストン周辺で活動しているミュージシャンたちが大半であった。
単に演奏、することだけでは無くミュージシャン同士の交流を広げることもセッションに参加する大きな理由の様だった。
中には自分からコールする曲も全てリアルブックを広げて演奏する人も居たが明らかに歓迎されない。もちろんそれはスタンダードな曲についてであり当時のシーンで大活躍していた気鋭のアーティストの楽曲などはトランスクライブして来た楽譜を僕らにも配って演奏する事もあった。
稀だがシンガーが来ることもあった。僕は既に他にもシンガーのライブで弾いていたがレパートリーは大概キチンと移調された譜面のファイルがありそれを読んで弾くのが普通だった。イントロやエンディングなど、独自のアレンジもあるためそれは必要なことではある。
しかしこのセッションで不意にやって来たベテランシンガーは譜面を持っていなかった。
ごく普通に演奏しているスタンダードだが僕は指定されたキーではロクな演奏が出来なかった。
この経験から移調が出来ること、いや移調が出来る程楽曲を理解して覚えて行く事の大切さを感じるようになった。
リアルブックに載っている曲もかなりいいかげんなコードやアレンジが書かれた物もある事を知った。
重要な楽曲はそのオリジナルレコーディングを聴いて基本的には耳で学ぶ事を大切にすること。
単にコードとメロディでは無くイントロからエンディングまでその曲のアイデンティティたる部分は全て学ぶこと。
伝統、歴史に興味を持ち、リスペクトを持つこと。これらは僕がこのWally'sで学んだ
ジャズを追求する上で大切なことだった。
彼らはスタイルの違いなど全く気にしない。
新しいアイデアも大歓迎される。
そもそも音楽、ジャズは自由なのだ。
しかしその歴史、歩みを全く無視して
「自分の演奏」だけを強引に披露することは
ジャズとはかけ離れた「エゴ」でしか無い。

セッションに通い始めて3ヶ月ほど経つ頃、
ウォーレンたちからホストピアニストとしてこのセッションに参加してくれと言われた。
おそらくそれは当時僕にとって一番嬉しい出来事であった。
セッション自体をリーダーとして任される事もあった。
ウォーレンもジェイソンもWally's以外のお金の良いギグにも僕を誘ってくれる事も増えた。セッションは当時にしても金額の安い仕事だったのだ。
しかし日曜の午後4時というのは日曜日のブランチギグを終えた後でも間に合う仕事だったし何より僕は沢山の事をこのセッションから学んでいた。だから帰国ギリギリまでWally'sでの演奏は続けた。

ある時僕に電話がかかってきて来週末二日間
Wally'sで演奏出来るかと訊かれた。
ウォーレンからの紹介だと言う。
何とそれはあのダレン・バレットからの電話であったのだ。ダレンとの出会いが出会いだっただけに感慨深い経験となった。
ダレンとはその後韓国のジャズフェスティバルでも共演することが出来た。


ジャムセッション。
これは日本のどんな街にもあるかと思う。
都内など大都市にはプロのジャズミュージシャンが集う極めてハイレベルなセッションもあるかもしれない。しかし多くの場合はアマチュアジャズ愛好家や学生が参加者の中心だと思う。
ホストミュージシャンもきっとそれぞれのコミュニティの中で知識、技術、経験に長けた人たちが担当するのであろう。

僕が何を伝えたいか、というと
ジャムセッション、という場から実際に学べること、得られるものは本当は計り知れない程沢山あるということ。
セッションで演奏されるレパートリー集、かつてアメリカでリアルブックがそうであった様に今の日本では俗に言う"黒本"が一般的だと思う。
僕はある種のガイドラインとしてその様な楽曲集はとても有意義な存在だと思う。
アメリカにもリアルブック、newリアルブックなど様々あった。
ただ僕が思うのは毎週の様に幾つものジャムセッションに通う一方でどんな曲、特に毎週の様に自らがコールして演奏する曲すらも必ず本を開いて演奏する人たち。実際に多くのセッションで見かける光景だ。
これではその演奏がセッションならではの音と音を介したコミュニケーションには到底辿り着かない。他の人の演奏に充分耳を傾ける余裕が生まれないのだ。
星の数ほどあるジャズスタンダードを全て覚えることは不可能だ。しかし自分が好んで演奏したい、と思う曲は覚えた方がいい。少なくとも長い音楽との関わりの中でそういう期間、スタンダードを本当に学ぶ期間を持つべきだと思う。
セッションに通って毎回の様に演奏する曲から先ずは覚えること。
趣味、アマチュアであろうと関係ない。
楽譜にあるコードを何となく貼り付けているだけではその先その演奏が進歩することはおそらく絶対に無い。
誤解しないで欲しいのは至極音楽的に高度なアレンジ、その他決め事をミュージシャンが読む、ということは全く別の次元の話だ。経験豊富なミュージシャンの読譜力、読解力は桁違いなのだ。だが彼らももれなくかつてスタンダードを通じてジャズに必要な様々な要素、ハーモニー感覚、リズムの基礎を学んだのだ。



大切なのはそれぞれが自分なりに「取り組んだ」か。先ずは一曲でもしっかり覚えたか。偉大な先人たちの音源を聴いて聴いて、たとえ拙くてもそのソロをコピーをしてみるのも良い。
このネット社会でもし上達したい気持ちがあるならば様々な練習方法に辿り着く事は容易だ。

本当に努力している人間の音は違う。
少なくとも僕らの耳にその違いは明らかだ。
それは単に上手い下手ですら無く
質感がはっきりと変わるのだ。
そんな人は間違いなく上達する。
プロを目指す目指さないはそれぞれの人生のチョイスだし、ある意味重要では無い。しかし音楽、ジャズをやりたい、その本質的な意味は変わらないはずだと思う。

そしてセッションに参加するなら他の参加者たちの演奏も聴く、ということ。それも"本気で聴く"こと。
自分が演奏することばかりが全てでは無い。
自分よりも上手な人の演奏もその逆でも。
そして前向きに受け止めて練習や次の演奏の機会に繋げて行く。
ポジティブな姿勢でセッションで知り合った人たちとぜひ交流を持つべきだ。情報交換、どんな音楽を聴いてるか、どんなふうに練習しているか、
一緒に音楽をする、演奏する仲間に興味を持つこと。そして自らは謙虚であること。
自分に対する真摯な厳しさ、そして他人への真摯な優しさ、これらは僕が音楽を続ける上で最も大切にしたいことでもあるが実は音楽が我々に与えてくれる最も豊かな恩恵そのものなのだと思う。

僕にとってセッションの場は学校を超えた学びの場であり交流の場であり今の僕の音楽や人間性に大きな影響を与えた場だった。楽しいだけでは無く厳しい洗礼を受けたこともある。もうそういう事は余り無い時代かも知れないがやはりジャズを知る、学ぶ上でセッションは必要不可欠な経験だと思う。

「発散」の場などでは無く純粋な音楽の土壌。
ある種崇高で、清らかな場に保たれねばならないと思う。そんなセッションが続く店、街は素敵だ。きっと素晴らしいジャズマンを日々育て、世に送り出す様になるはずだ。
生き生きしたシーンがある街には生き生きとしたジャズが溢れ、そんなジャズを好きになる人々も増えるのではなかろうか。
だから僕は精一杯僕の出来る形でここに記した様なことを伝えたいと思った。











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