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母の仕事

今日は、「母の日」ですね!
母が亡くなって2年半、もう、「母の日」に何かをしてあげる事は無くなりました。ですから、母の事を書こうと思います。

母は、服飾の高校を出たのにも関わらず、タイピストをしていました。
本人が言うには、戦争中で、受験が無く内申書で本人の意思無く学校を決められたので、仕方なく服飾の学校に行った。と、言っていました。
私の小さい頃の服や自分の服を作っていたので無駄では無かったと思うのですが、、、
だからでしょうか、卒業後全然違う職業についていました。

で、どこに勤めていたかと言うと、『大分地方裁判所』のタイプ室でした。
裁判所のタイプというのは、縦書きの「和文タイプライター」というもので、2000字以上の漢字、ひらがな、カタカナ、数字などの文字が、一つずつハンコのように細長く四角の金属の先に、文字が掘られていて、それが逆さまに向かって並んでいる判を、円筒に何枚も複写紙を交互に重ねて巻いている紙に(コピーも兼ねているのです)叩きつけて文字を打っていくものです。
英文と違って、判を直接見て、文字を確認しながら選んで打っていくのでした。

和文タイプライター
漢字が多いので予備の印もありました

裁判の予定から裁判内容までパソコンの無かった戦後に使われていたものでした。
1980年代まで使用していたらしいです。
部屋には、8人程のタイピストがいました。
どの人も、母と同じ位の年齢で、当時としては珍しく、結婚して、子供ができても勤めていました。
いわゆる、『職業婦人』というものだったようです。
子供の頃、よくこの部屋に訪れていたものです。

その頃の裁判所は、石造りの風格ある立派な建物で、入り口から入るとアールを描いた大きな階段が真ん中にあり、石で出来た階段を登った先に「タイプ室」はありました。
今、朝ドラ「虎に翼」に出てくるような洋館でした。(実はドラマを見ていて思い出したのでした💦ドラマ程豪華ではなかったのですが)

多分ドラマに使用している
名古屋市市政資料館


廊下にはまあるい照明が並んでいました。
部屋は、天井が高く、蛍光灯がぶら下がっており、漆喰塗りでてきていました。
縦長の引き上げ式の窓があり、その窓の下には、オイルヒーターがありました。
冬にはみんなお弁当をヒーターの上に置いていたのを覚えています。

作り付けのオイルヒーター


夏になると、その窓は開け放たれ、涼しい風が入ってきていました。
壁には扇風機が何箇所か付いていました。
(今より涼しかったのでしょうね、エアコンなどありませんでした)
皆さん、カッタン、カッタン、カッタンとリズムを取りながらタイプを打っていました。
遊び(⁉︎)に行くと瓶に入ったヨーグルトを売店で買ってもらっていた思い出があります。
子供が行くところでは無いのですが、母と、仕事帰りに用事がある時など仕事が終わるまで、おとなしく待っていました。
他の大人も、慣れていたのでしょう。優しくお菓子を勧めてくれていました。

多分私の洋館好きは、この裁判所が元にあるのだと思います。

母も、華やかな「オフィスレディー」でしたが
父の転勤で、それも終わりました。

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