日フィルのショスタコーヴィチを聴く中学生たち

以前、N響の定期演奏会で指揮研究員が代役を務めた騒動について書いた。またこんな愚痴を書くと不満ばかり言う人間に思われてしまうかもしれないが、普段は素晴らしいものを素晴らしいと色々なところで書いているのでご容赦いただきたい。

私の大好きなマエストロ・ラザレフが昨今の政治問題で来日できなくなってから、長らく聴く機会がなかった日フィル。今年いっぱいで引退を発表している井上道義氏との最後の共演ということで、久々に足を運んでみた。

2024.5.18
日本フィルハーモニー交響楽団 第397回横浜定期演奏会
指揮:井上道義
チェロ:佐藤晴真
ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第2番 ト短調 op.126
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番 ホ短調 op.93

マエストロのショスタコは大好きで、N響や新日本フィルとの共演をたくさん聴いてきた。なんなら来月も京都に聴きに行こうと思っている。10番は若干マイナーな作品だが私は彼の交響曲の中でもトップクラスで大好きだし、チェロ協奏曲の2番は演奏機会がかなり少ないので興味津々だった。

ホールに入ってみると男子中学生と見られる学生がたくさんいる。後からある投稿によって知ったが、某私立中学の学生200人ほどが団体で招待されていたらしい。
先述の通りマエストロとオーケストラの最後の共演だったのもあってか、チケットは完売だった。

彼らは見るからに(偏見ではあるが)管弦楽部の部員でもなさそうで、開演前から給水所でたむろしたり、客席にいながら大声で話したり、水筒(?)を派手に階段の下方へ落としたり。
案の定、演奏中も酷い有様だった。無遠慮な咳、鼻を豪快にすする音、大きないびき、話し声、荷物をガサガサ探る音、楽章間で声を出しての大あくび。
かなりシリアスで弱音の支配的な楽章もあり、相当耳障りだった。

引率していた先生は休憩中に客席内の通路で彼らを監視していたが、演奏中はなすすべもなし。事前指導はどのようなものだったのかと疑問が残る。

一連のことは、もちろん学生本人たちの問題もあるのだが、重要なのはそこではない。

音楽をやっていた私でも、今回のプログラムは中学生当時なら絶対飽きていた。
10番はおろか、2番のチェロコンを知っている一般の中学生がいたら賞賛ものだろう。よく知らない作品を2時間聴かされたらじっと座っているのも辛い。
有名な『運命』や『第九』だって、聞き覚えのある部分以外を我慢して聴くのは困難なことだと思う。シートピッチも狭く、舞台から遠い3階席後方でずっと聴かされるのはなんなら可哀想かもしれない。子供向けの演奏会を企画しているオーケストラ事務局側からしても、そういったことはよく分かっているだろう。

どのような経緯でこの団体を招待するに至ったかは不明だが、どの演奏会でこれを企画するかはもっと協議されるべきだった。学校側、事務局側双方の問題であるが、なぜ「音楽鑑賞教室」ではなく「定期演奏会」で場を設けたのか、さらになぜここまでのマニアックなプログラムを選んだのか。


聴衆の視点でも、今回の件は甚だ迷惑な話だった。
結構な騒音だったので他のフロアにまで聞こえていたものと思うが、定期会員の割合が非常に多いのが日フィルの特徴である。"いつもの" 演奏会でありながら、今回はマエストロ井上の特別な機会。完売になったのでチケットを取り損ねた人もいるだろう。そんな貴重な演奏会に大きな期待を寄せて集まった聴衆たちがこの光景に遭ってしまったら、とことん失望するのは明々白々だ。現に私の周りの聴衆たちは彼らの方をチラチラと見ていたし、休憩中もそこらじゅうから怒りの声が聞こえてきた。

時折、学生が10数人、あるいは数十人規模でオーケストラを聴きにきているのを見かける。音楽関係の学生なら大人以上に熱心に聴いている彼らだが、一般の学生ならそれは難しい(オケという問題ではなく歌舞伎だって文楽だって同じだろう)。

今回のような場合にはオーケストラ側が予め学生が200人いることを発表する必要があったのではないだろうか。それを承知の上で一般チケットを取るなら覚悟できるが、なんの予告もなくこの光景では流石に興醒めしてしまう。

オペラの連続公演では、「高校生向け公演」と銘打たれた公演が合間に行われている。

新国立劇場 高校生のためのオペラ鑑賞教室『トスカ』
https://www.nntt.jac.go.jp/release/press/NNTT_PressRelease_Tosca_2024_0711.pdf

2024年7月、『トスカ』の公演を行なう新国立劇場。
学生向けの公演も同時期に開かれる。

高校生を優先に販売し、残席があれば一般も発売される。
自治体が開催する「音楽鑑賞教室」があまりにベタな選曲ばかりというのであれば、このような本物の公演を学生向けに設定することもできるはずだ。

何も知らずに来場した一般の聴衆を、さらには来場できなかった聴衆を犠牲にしてまで、彼らをこの公演に招待する意義はあったのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?