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スポーツ現場におけるハラスメントとの決別宣言

プロリーグとして恥ずべき重大案件

Jリーグ常勤理事の佐伯夕利子です。

昨年12月30日、Jリーグはサガン鳥栖の前監督によるパワーハラスメント事案に対し懲罰決定を発表しました。

これを受け、2021年に発生したトップチーム監督によるパワーハラスメント事案は、東京ヴェルディに続き2件目となった。

さらに2019年、当時の湘南ベルマーレ監督による事案にまで遡ると、短期間で3件もの大きなハラスメント事案が発生したこととなり、リーグとして重大な責任を感じている。

何よりもまず、理事として被害を受けた方々へ心からお詫びを申し上げたい。合わせて心身に負われた傷のご回復をお祈りするとともに、回復まで時間を要することも想像され、こうしたケースにおいてはJリーグとしてもしっかりとケアしていきたい。

Jリーグは、理念のひとつとして「豊かなスポーツ文化の振興及び国民の心身の健全な発達への寄与」を掲げている。

一方で、これまで起きた一連のハラスメント行為は、豊かでも、健全でも、そして、誰をも幸せにするものではない。

Jリーグの現場において、今もなお、こうした恥ずべき事態が起こり続けていることに対し真摯に向き合い、暴言・暴力をはじめとするあらゆる「ハラスメントとの決別」を私は改めてここに誓いたい。

ここでは、ハラスメントの実態改善に向けて本質から原因を検証し、これまでの反省を生かした上で、スポーツが担う社会責任を全うする決意をここに記したい。

パワハラ指導は指導法の一種ではない

日本スポーツ界は、これまで何度か海外の人権団体などから、スポーツ現場における暴言・暴力をはじめとする「人権侵害」について厳しい指摘を受けてきた。

「人権侵害」「被害者」「加害者」「暴言」「暴力」・・・、これらの言葉が並ぶ報告書は、スポーツのあるべき姿からあまりにもかけ離れていて、違和感すら覚える。

言うまでもなく、日本スポーツ界を見る世界の目は私たちの認識以上に厳しいが、どの競技団体においても、残念ながら今日に至るまで充分な実態改善には至っていない。

怒鳴る、蔑む、見下す、罵倒する。
小突く、叩く、はたく、ぶつ、殴る、蹴る、倒す。

「厳しい指導」(「ゆるい指導」もしかり)など、世界中どこを探しても、そんなコーチング学やコーチングメソドロジー(指導方法論)は存在しない。

にも関わらず、まるで「指導方法」の一種かのごとく語られるのを聞くたびに、違和感を越えて不信感を持たざるを得ない。ましてや、こうした「パワハラ指導」は、傷害、暴行、名誉棄損、侮辱といった犯罪に過ぎず、指導方法でも何でもない。

だから、もうそろそろ「厳しい指導方法」などと都合のいい言い訳に逃げることなく、パワハラ「指導」は「尊厳の迫害」そして「人権侵害」以外に解釈の余地などないことを、スポーツ界全体で再認識したい。

ハラスメント行為は人権侵害である

間違えてはならないのは、Jリーグが決別を誓うのは、あくまでこれらの「行為」であり「行為者」ではないことである。

私たちが守り抜く姿勢は変わらず「こうした行為を許容・容認しない」という決意であり、「行為者を裁き葬ることではない」ということを、ここで改めて強調しておきたい。

以前から「日本のスポーツ現場は不条理だらけだ」と聞かされていたものの、私は人生の多くを海外で生活してきたため、これまで日本のスポーツ現場における実態を正確には把握しきれていなかった。

2020年3月にJリーグ常勤理事に就任以降、2年足らずの間に100本近くのセミナー・研修・講演の登壇や取材対応を経験した。

こうした場で、日本と海外のスポーツ現場の違いを共有するたびに、指導者による暴言・暴力に苦しんだという被害者アスリートたちから驚くほど沢山のメッセージが届くようになった。

「言われている以上に日本のスポーツ現場は酷い」
「監督と出くわさないように避けながら過ごしていた」
「毎日自殺することばかり考えていた」

これらの被害者の多くは、然るべき団体や窓口に救済を求めたわけでも、適切な支援を受けたわけでもなく、いまもなお心の傷を負ったまま沈黙の闇で孤独に苦しみ続けているケースがほとんどである。

これまで、日本スポーツ界がハラスメントを助長してきた背景には、関係者による許容・容認があったのではないかと感じている。

ここでは、あえて俯瞰的に「暴言・暴力・虐待・ハラスメント」について考えたいので、私の憤りや怒りといった感情への言及は避けるが、こうした告発メッセージを受信するたびに、これほど熱く心が揺れ動く事案はなかったし、Jリーグがいま何よりも最優先課題の一つとして取り組むべき案件は「人権問題」であると認識し、内部で議論を重ねてきた。

今後は、競技を垣根を越えたスポーツ界全体での協力体制が不可欠であるし、ハラスメントを研究する専門家やハラスメント被害者などからも積極的に意見を伺い、問題の解決策を模索したい。

また、これまでハラスメントをしていたことを告白し、それを恥じ、後悔し、過ちに気付き、学んだ指導者も少なくない。

ひとはみな、永遠に不完全な生きものである。
何度もミスをし、過ちを犯す。
しかし、間違いから学ぶ学習能力を備えてもいる。

制裁は、過ちを犯したひとの意識変化や行動変容に、直接的な効果は生まない。

スポーツを通じ、だれひとり取り残されることのない社会を築いていくためには、ミスから学ぶ環境を提供することも忘れてはならない。

学ぶとは、気付くこと。
気付きとは、新しい自分との出会いである。
自覚が生まれ、気付きを得た者ほど強いものはない。

だから、こうした元加害者からも積極的に知見を頂き、Jリーグがリーダーシップを取ってスポーツ界における暴言・暴力行為を無くしていきたい。

海外にハラスメントは存在しないのか?

「海外(*)では、ハラスメントはないのでしょうか?」と聞かれることがある。(* 西洋文化という意味合い)

私がこれまで30年間過ごしてきたスペインでは、少なからずハラスメント事例はあったし、そしてこれからも恐らく起こることだろう。

各国サッカー連盟によって、こうした規律裁定や懲罰規程は若干異なる部分もあるかと思うが、例えばスペインFAの規律規程では「規律違反」とされる行為を、
・軽罪
・重罪
・超重罪
の3段階で区別している。

当然、それぞれのケースにおいて文脈精査し判断がなされるが、パワハラのような暴力行為については「超重罪」にカテゴリー付けされており、「2年以上の活動停止処分~永久追放」が課される。

そもそもそれ以前に、被害者は警察署に被害届を提出し告訴、法の下で裁かれるのがスタンダードな流れであるためか、少なくともこうした極端な事案は私の記憶にない。

暴言・暴力行為が横行する背景

これら暴言・暴力行為が横行する背景はあまりにも複雑で、私たちが正義の拳を振りかざし、憤り、怒り、声高に訴えるだけでは解決に繋がらない。

そもそもこうした問題では、加害者に自覚がないことや、自分で作り上げた不当行為の正当性を信じ込んでしまっていることが多い。また、被害者が感情の麻痺を起こしているケースが多く、自分を守るために心を切り離すようになることで、そうした環境が常態化し問題解決の難易度を更に複雑にしている。

さらに、直接的当事者ではないが、選手の保護者やその他の関係者までもが「勝つためには仕方がない」など、暴言・暴力を正当化し、無理やり意味を持たせようと自己暗示的な思考に陥っているケースが少なくない。

だからこそ、我々はそれぞれ当事者の視点に立ち、多角的に検証、アプローチすることが必要となる。

例えば社会全体では、ハラスメントに関するリテラシーを高めるべく「啓発活動」を根気よく続けていくべきであるし、そして、最も丁寧に対応すべきである被害者に対しては、「救済システムの構築」や専門家を交えた「心理的ケアー」や「回復への支援」も今後必要となるだろう。

また、「知識は身を守る」と言われるように、可能被害者(※1)および保護者・関係者への「教育」についても対応したい。
(※1 被害対象となり得る可能性のある人)

一方で、可能加害者(※2)には、そうした行為に至る背景や環境の改善対策や、そうならないための学習機会の提供をすべきだろう。
(※2 加害者となり得る可能性のある人)

あわせて、元加害者には「制裁」と同時に「復帰支援」を進めることが重要である。

さらに、スポーツ界全体でこうした「行為」に目を光らせ、常にスポーツ現場における安全確認をすることも忘れてはならない。

人として最低限のルール

さてここで、近年よく聞かれるようになった「リスペクト」について、少し考えてみたい。

西洋文化における「リスペクト」の概念は、この世に生を受けた全ての者が課された「人として犯してはならない最上位概念」である。

Respectは、日本語で分かり易く表現すると「尊厳を重んじる」という意味であるが、こと日本においては、「リスペクト」は「条件付き」かつ「選択制」であることに驚かされる。

スポーツ現場における「暴言・暴力・虐待・ハラスメント」は、まさに「人として守るべき最低限のルール」を侵害する行為であるが、それは「勝つために」や「監督だから」などといった(無茶苦茶な)理由を付けて、「遵守しない」という選択肢が存在することからも、私たち日本人の文化において、いかに「リスペクト」の意味が正しく理解されていないかが見て取れる。

次に、スポーツ現場で「監督が怒る」とか「選手を叱る」というシチュエーションについて考えてみたい。

このように「怒る」「叱る」の話しになると、「怒っちゃいけないのか!」とか、「叱るも指導のうち!」といった極端に偏った議論になりがちだが、「良いor悪い」「イエスor ノー」といった二元論になるのは本意ではない。

むしろ個人的には、「怒る」も人が持つ重要な感情のひとつであり、怒りを伝えることも人間関係において大切なコミュニケーションであると考えており、ここでも決して「怒る・叱る」が「悪」であるという話しがしたいのではなく、「何に対して叱るのか?」を間違うと、人間の尊厳を冒す行為になるという確認に過ぎない。

そこで、指導者が守るべき心得として、「怒る」「叱る」の最低限のルールを下記に整理してみたい。

他者から見える人の言動を大きく分類すると、
① attitude(アティチュード:姿勢、態度、取り組み方)
② aptitude(アプティチュード:適性、才能、スキル)
③ being(ビーイング:存在、ありよう)
に分類される。

スポーツ現場において、指導者が選手に対して叱るべき「対象」は、「手を抜く」や「ずるをする」などといった、あくまで①にある「選手の取り組み姿勢」にであって、②その人の適性や能力(アホ、ボケ、バカ野郎、役立たず、無能、など)、さらに③その人の存在そのものを蔑み、否定するような言動(死ね、殺すぞ、消えろ、など)であってはならない。

年齢や立場を問わず、人としての尊厳(リスペクト)を遵守し、嫌味、皮肉、軽蔑、侮辱といった「毒」を含む言葉を用いて、選手を否定したり、攻撃したりしない。

これは、アスリートがドーピングを禁じられているのと同じように、指導者が遵守すべき最低限のルールと言えるだろう。

指導者とは選手を動機付け行動を促す人

指導者・コーチ・リーダー・マネージャーといった役職に就く人は、他者に行動を促しパフォーマンスにつなげる役目を担っている。

人が何かしら行動を起こすとき、そこにはモチベーションと言われる動機づけが存在する。

スポーツ指導者に限ることではないと思うが、リーダーが他者をモチベートし動かす際、様々なやり方があるが、ふたつのタイプをここで見てみよう。

まずは、アスリートの声に耳を傾け、寄り添い、本人の主体性「楽しい!好き!やりたい!」を原動力に、高い自己決定による内発的動機付けからパフォーマンスにつなげる「支援型」のリーダーシップ。これは、リーダー本人の高い意識や意志と、時間をかけて根気強く向き合う必要があるため、スポーツ現場における浸透傾向はやや緩やかである。

もう一つのタイプは、「怖いからやる」「怒られるからやる」といった外的な動機付けを利用したもの。ハラスメントにつながるケースにおいては、指導者がこうした「コーチング」を選択している傾向がみられる。ここでは、自分の不機嫌や怒りを露わにすることで「怖い自分」を見せることで、まずは選手の意識をこちらに向けて統率・管理する、といった関係性の初期設定が存在する。そうして、選手を自分の支配下に置きヒエラルキーを構築。彼らが感じる「不安」や「恐怖心」を「動機」に変え、「服従関係」をもって選手を動かすやり方である。

またこうして、自分に平伏させ選手を動かそうとする傾向がみられる指導者には、「ムカつく」「使えない」などといった漠然とした解像度の低い言葉でその場を一蹴する傾向がみられ、自分の感情を細かく言語化できず苛立ち、実は自身が苦しんでいる場合が多い。物事がうまくいかないと、まるで他者に全ての原因があるかのようにイライラしながら指導現場に立つ、そうした指導者の姿はとても幸せそうには見えない。

ある人は、「人前で不機嫌な態度をするのはマナー違反である」という。さらに「不機嫌は怠け心、上機嫌は意志。自分の機嫌は自分で取るべきで、他者に問題があるわけではない」と指摘する。

「優秀な指導者」の定義と指標

私たち関係者は、スポーツという健全なイメージの裏側で、スポーツにおけるチーム構造がいかにヒエラルキーに縛られ、監督がアンタッチャブルな存在に陥り易く、閉鎖的な組織になりがちかを自覚しなければならない。

私たちはこれまで、試合結果や大会成績といった「成果」ばかりを評価される、決して豊かなスポーツ文化とはいえない文脈の中で育ってきた。

そうしていつの間にか、試合の勝ち負けこそが優秀な指導者の指標の如く評価基準となってしまった。

「指導者」と「勝ち負け」を直結させて語ることが、いかに無意味で危険なことであるか。誰もが、そんなこと、とっくに気付いているはずなのに。

本当は、その試合は私でなくても「勝った」かもしれないし、「負けた」かもしれないのに。

本当は、その選手は、そのやり方でなくても「成功した」かもしれないし、しなかったかもしれないのに。

「勝ち」や「成功」に、普遍の方程式はない。秘伝のタレやレシピは存在しないのだ。

チームは、個の集合体である。
個である「ひと」には、感情や意思がある。

「ひと」「感情」「意思」を軽視し続ける指導をどれだけ続けても、そこに最高級のパフォーマンスは生まれない。

ハラスメント行為に潜む「認知の歪み」と「攻撃性」

ハラスメント行為をおこなう人間に共通して見られる「攻撃性」や「狂暴性」についても、考えてみたい。

脳科学者の中野信子氏は、「相手の過失に強い怒りを感じ、日ごろは使わないような激しい言葉で罵り、完膚なきまでに叩きのめさずにはいられない。これは『正義中毒』というべき一種の依存症状」であるとし、「『他人の言動が許せない』という感情の暴走が引き起こすのがハラスメント」であるという。

また、「人間は誰しも、このような状態にいとも簡単に陥ってしまう性質を持っている」と話す。そして、「自分は絶対に正しい。あいつは叩かれて当然だと、暴言を吐いたり、ハラスメント行為をするその人の脳には、ある異変が起こり一種の快楽が生まれている」と指摘する。

私はこれまでも、事あるごとに「正義とは?」「正しい正義とは?」「正義の行使とは?」について言及をしてきた。

人にはそれぞれの「正義」があり、それを必死で守ろうとする本能のようなものが働く。これは人の徳である反面、その正義が歪んだものになると、こうしたハラスメント行為に繋がりかねない。例えば、「指導の一環だ」「選手のためを思って」「チームが強くなるために」といった思いは決して嘘ではなく、ある種これも「正義」といえるだろう。

ただ、ハラスメント行為を正当化するこれらの「正義」は「個人化」され、歪んだ解釈がなされることで問題に発展していると感じる。本来「正義」は「正」よりも「善」が優先されるべきで、そのためには、的確かつ適切な「正義」の使い方を意識することや、「意味ある正義」を「必要な時」に行使できるよう日頃から心掛ける必要がある。

また、精神科医のデビッド・D・バーンズ氏は「認知の歪み」について、誇張的で非合理的な思考パターンから生まれると提唱。そしてそれら歪んだ思考の代表例として、

1. 全か無かの思考
2. 行き過ぎた一般化
3. 心のフィルター
4. マイナス思考
5. 論理の飛躍
6. 拡大解釈、過小解釈
7. 感情の理由づけ
8. ~すべき思考
9. レッテル貼り
10. 誤った自己責任化(個人化)

といった10パターンを挙げる。

誰もが陥りやすいとされる、こうした認知のメカニズムや思考癖を学び、自分を客観的に正しく知ることは、競技の知識を深めるのと同じくらい指導者にとって大切な作業であると考える。 

新時代のコーチング概念

2014年、当時私が所属していたビジャレアルというクラブでは、120名の指導者が指導現場の改革に取り組んだ。

指導者のマインドセットの過程において、こうした指導者の苛立ちが散見されるたび「そこにあるあなたの本心は何?」と、メンタルコーチに何度問われたことだろう。

指導者の苛立ちの正体は、「オレの言う通りにしないお前が気にくわない、ではないか?」と。

そして、
「スポーツは誰のものだ?」
「選手は指導者を満足させるためにプレーしているのか?」
「他者を平伏させることで、ある種の恍惚感に浸っている自分がそこにいないか?」
そんな問いが矢継ぎ早に飛んできたものだ。

そこにある自分の本音や本性に自覚的になること。そこから自らの行動変容が生まれることへの気付きを得た。

「言葉は思考をつくるから、使う言葉は綺麗な方がいい」そんな助言も受けた。日本語でいうところの「てめぇ」「こいつ」「おまえ」などといった言葉だと理解頂ければいいだろう。これらを別の言葉に置き換えてコミュニケーションを取ることは、決して難しいことではないはずだ。

また「感情をひとつひとつ丁寧に言葉にする練習をしながら解像度を高めると良い」といったヒントも得た。「使えない」「だからお前はダメなんだ」「そんなプレーは小学生でもできる」。こうした表現の奥にある自分の感情を、もっと解像度高く言語化できれば、きっと違ったコミュニケーションが生まれるだろう。

そんなちょっとした自己改善に取り組むだけで、選手との関係性が向上することを学んだ。

さらに昨今、指導者界では「フットボールをヒューマナイズする」と表現されるように、指導環境を「人間的で体温を感じられるものにする」意識が高まっている。この概念は、スポーツにおけるアクター(主役)であるアスリートを起点にあらゆる発想を起こし、よりよいパフォーマンスを追求しようというもの。

これまで100年以上にわたるフットボールの歴史を振り返り、極めて非人間的(人情的)であったこれまでの指導現場に対する反省から生まれた概念であると感じる。

アスリートが何を感じているのか。
何を思い、何を考えているのか。
何が見え、何が聞こえているのか。
アスリートが、どうしたいのか。

こうした観点を軽視せず、指導者はそこから選手とともに共通認識という合意形成を経て、チームとして競技に臨むというコーチング概念である。

指導者は、アスリートのパフォーマンスを最大に引き出すコーチング方法として、いくつかの選択肢を持つ。どれを選ぶかはその人しだいだが、そこにある選手との関係性の豊かさは、指導者がそれまでの人生で何を学び、考え、行動してきたかの通知表であることを忘れてはならない。

選手そして指導者のみなさんへ

人は、否定されたり批判されると、脳が委縮し身体が強張る。脳が炎症し心が傷を負った状態で、最高のパフォーマンスを発揮できる人などいようものか。「追い込んでやる気を出させる」だなんて、そんな無茶な理屈を一体いつまで信じるのだろう?

アスリートの皆さんに、声を大にして伝えたい。
尊厳を冒されてまで耐え抜く先に価値などない、と。
あなたを丁寧に扱い、尊重し、大切にしてくれる指導者を選んでほしい。
蔑み雑に扱われることに慣れる前に、そこから離れる選択肢があなたにはあるのだから。

その人が、本当に優秀な指導者であるのなら、あなたに適切なフィードバックを提供するだろう。フィードが「栄養を与える」という意味を含むとしたら、暴言や罵倒は「毒」であり、あなたを育てる「栄養素」には決してなり得ない。

そして、スポーツ現場で日々悪戦苦闘している指導者のみなさんには、
「あなたは、そんなあなたが好きですか?」
この問いを投げかけ、共有したい。

人は死ぬ直前にどんな後悔をするのだろう?

誰もがみな、いつかは灰となる。
権力者も、富豪も、賢者も。
あなたも、私も。
みな、同じように。

あなたの選手は、あなたがどれだけ立派な理論を話し聞かせたかではなく、あなたにどんな思い(感情)にさせられたかを、生涯ずっと覚えているだろう。

そこにいるあなたの選手は、輝かしく眩しい存在であることを今一度思い出し、彼らと正対できる自分になろう。そして、温かい心で歩み寄り、目の前の彼らを大切に扱うことにこそチャレンジして欲しい。

例えそれが、たったひとりの人であったとしても、その人を傷付け尊厳を侵害することほど、取り返しのつかない信頼の損失はない。そして、人生においてこれ以上の後悔はないだろう。

不安や恐怖で繋がるよりも、優しい心で繋がる関係性の方が、誰だって幸せに決まっているのだから。

みんなにも読んでほしいですか?

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