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【スピリチュアル】私たちは高次の存在なのかもしれないというお話(前編)

※今回は無料記事となっておりますので、メンバーシップ会員以外の方も最後までお読みいただけます。ちなみに今回は「前編」ですが、ゴールデンウイーク最終日ということで明日投稿予定の「後編」も無料記事に致します。

こんにちは。世界はゴールデンウイークモード全開であちらへこちらへとフル回転しているわけですが、皆様どのようにお過ごしでしょうか。私は今年、社会人になって以降初めて「ゴールデンウイークに連休を取る」ということを経験し、あまりの自由さに困惑してTwitter(X)の投稿頻度がバグったりセルフ人体実験が度を超えてもはや異常行動になったりトイレで気付いたら30分くらいぼーっとしていたりと、大変有意義な時間を過ごさせていただいております。

改めまして本日も記事を開いていただき誠にありがとうございます。Jegと申します。愛してます

さて、今回のテーマは「スピリチュアル」ということですが、このカテゴリは本日より発動するものとなっておりまして、他のどのカテゴリにも分類されないような、どちらかと言えば宇宙意志とか神様とか高次の存在とかツインソウルとか、そういう話題を扱っていければと思っております。

雑記と何が違うんだという意見は受け付けません。

そんなわけで今日はちょっと不思議なお話をしますね。

いつもはそれなりに根拠と言いますか、割と現実的な視点からスピリチュアル的なお話をすることが多いのですが、今回のお話は「何故そうなのか」という部分が不明瞭で、でも「絶対こうやろ」としか思えないようななんとも不思議な事象についてのお話なのです。

簡単に言えば思いっきりスピリチュアルなスピリチュアルのお話です。

無理矢理感満載で変な理屈もたくさん出てくるかと思いますが、Jegという人間は普段からこんなことばっか考えてる奴なんだよ、ってことをご理解いただくためにも、甚だ恐縮ながら私の妄想劇にしばらくお付き合いいただけましたら幸いです。

そんなわけで早速本題に入って参りたいと思いますが、今回のテーマは正に「私たちは神様なのかもしれない」というぶっ飛んだ話でございます。

そしてこのテーマはもう根拠云々じゃなくて、「そうとしか思えないからそう!」っていう力技で解説するしかない話なので、そういうのが苦手な方はここでブラウザバック・・を敢えてせずに修行だと思って読んでみたら何かいいこと起きたり起きなかったりすると思うよ!

(あ、そういえば今日は「こどもの日」ですね。この日が持つ意味合いは私の専門分野ではないのでよくわかりませんが、いずれにせよ子どもの持つエネルギーは莫大ですし、そんな子どもが主役になれる日なんていいこと起きるに決まっているわけでエネルギーは同じエネルギー同士で引き寄せ合うわけだからじゃあ自分も子どもみたいに大はしゃぎすれば精神年齢25歳くらい若返るんじゃないかという淡い期待を込めて思いっきり公園で騒いでみようかとも思ったのですがそれは傍から見れば不審者以外の何者でもないわけで子どもの日に大人が逮捕されるというのも子どもに見せるべき背中が教育上好ましくない背中になってしまうわけですからでは私はやはりいつも通り淡々と執筆活動を行うべきなのだろうと自分を戒めた次第でございます。)

ってことで、まずは「愛」のお話です。

愛を知るためには愛ではない何かを知る必要がある、といったようなお話です。

例えば高次元の世界みたいなものがあったして、そこは「愛」で構成されており、それを乱す因子は存在しないと仮定します。

この場合、そこに存在する万物は「愛」という概念を知ることができません。「愛」を知るためには「愛ではない何か」を知る必要があるからです。そういった例外が存在しない世界では、ただそれを当たり前として認識するしかないのです。

ではここに住んでいた何者かが、急に三次元物質世界へ派遣されたとしましょう。この世界は「愛」のみに依存する世界ではなく、ありとあらゆる概念が渦巻く混沌とした世界です。「自由意志」を与えられた人間という個体ががそれぞれの価値基準を持って千差万別な「当たり前」を個々に作り上げているのです。

そこで彼は生まれて初めて「愛」からかけ離れた行動を取る人物の行動を目にします。

彼の中に「愛」という概念が生まれるのはその瞬間です。

今まであった「当たり前」と「そうではない行動」の間に発生する違和感を認めて初めて、その違和感こそがかつての世界を構成していた「愛」であったと気付くのです。

空腹はどうでしょう。

今までお腹がある程度満たされた状態しか経験したことの無かった人間は、一定期間食事を絶たれて初めて「お腹が満たされていない」という状態を経験します。そして今までの「当たり前の状態」と、新たに発生した「そうではない状態」の間に発生する違和感を認め、そしてそれを「空腹」と認識するのです。

お金はどうでしょう。

今までお金は無限に使えるものだと信じながら生きてきた人は、残高が底を付いて初めて「お金が無い」という状態を経験します。そして今までの「当たり前の状態」と、新たに発生した「そうではない状態」の間に発生する違和感を認め、そして「お金は無限ではない」という事実を知るのです。

ではここで、「愛」も「お腹」も「お金」も、要するにすべてが満たされた状態を「本来の当たり前」であると仮定します。ここで言う「本来」というのは、私たちが生まれてくる前の状態という意味です。

私たちはこの三次元物質世界にやってくる前、「すべてが満たされた状態」が当たり前の存在でした。すべてが満たされているということは、何も求める必要が無いということです。つまり「願望」の存在し得ない環境に身を置いていたわけです。

当然そこには「善」も「悪」も存在しません。それらも同様に「そうではない状態」との違和感を認め、初めて認識されるものだからです。

何不自由のない世界は、幸福も不幸も、充足も不足も、興味も関心も、生も死も、性欲も食欲も睡眠欲も無い、ただそこにいる存在としての存在を全うするのみの世界です。

そんなある日、突然人事部長から異動を言い渡されます。異動先は三次元物質世界という得体の知れない世界です。

言われるがまま、その世界に人間として生れ落ちました。

そこで初めてかつて経験したことの無い「当たり前以外の状態」に遭遇します。そしてどういったわけか、元の当たり前に戻らなければならないという意識も同時に芽生えてくるのです。

試行錯誤の末、泣いて叫べば以前の当たり前に近い状態を、目の前の大きな生き物が与えてくれることに気が付きました。

そこで他者の存在に必要感を覚えます。この得体の知れない目の前の生き物がいれば、自分は元の当たり前に戻ることができる、と。

ですが不思議なことに、この世界は次から次へと自分を元の当たり前から引き離してしまうような出来事が起こり続けるのです。

その中で何かを食べることを知りました。他者に求めることを知りました。眠ることを知りました。すべては元の当たり前に戻るために。

やがて元の当たり前は「願望」として定着していきます。そしてそれは、どういったわけか「戻りたい」という過去に向けられたものではなく、「こうなりたい」という未来に向けられたものへと変わっていくのです。

願望は際限なく積もり続けます。満たされなければ満たされた状態に辿り着くため思考をフル回転させますし、仮に一つが満たされてももう一つを満たしたくなってきます。

気付けば元の当たり前は、全く当たり前ではなくなってしまいました。それどころか、求めれば求めるほどそこからかけ離れていくような気さえしてしまうのです。

そして満たされていない状態が「自分にとっての当たり前」として完全に定着する頃、周囲の人間たちは自分を「物心がついた」と表現するようになりました。

「夢を追い求めなさい」と、未来に目線を向けることを強要されるようになりました。


時が流れました。

頬に刻まれたしわの数が、そのまま余命と反比例して、この三次元物質世界への懐かしさに似た感覚を呼び起こします。

既に元いた高次の世界の感覚は残っていません。残っていませんが、最期の時を自覚するに連れ、不思議なことに何もかも満たされているような、そんな感覚が、懐かしい当たり前が、近付いてきたような気がします。

未来へ進むことも、過去に戻ることも、何ら変わることはない、同じもののような気がします。

ただ「今」のみぞが存在していて、なるほど、そこに色付けして、道程に興じていただけなのでしょう。

私はおそらく、そういった存在をただ全うしただけの、一個体だったのでしょう。

そして静かな最期がやってきました。


高次の世界へ帰ると人事部長が待っていました。何を経験してきたか、詳しく話すよう促されます。

そこで三次元物質世界で経験したことをすべて話そうとしました。ですがどうにも思い出せないのです。その旨を人事部長に話すと、実はそれが当然なのだそうです。

ただ一つだけ、うっすらと今、部長にお伝えいたしたい事柄が浮かびましたので、ではその感覚に従うことに致しました。

「出来事は忘れました。ですが一つだけ、いま私が、思い出したい、と感じるこの感覚は、この世界で一度も経験したことの無いものでございます」




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