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30年日本史00810【鎌倉末期】鎌倉末期総括

 強大な権力を誇った鎌倉幕府は遂に滅亡しました。最後に幕府滅亡に至る経緯をもう一度まとめ直しておきましょう。
 元弘元/元徳3(1331)年に後醍醐天皇が決起し、笠置山に立て籠もりました。笠置山はすぐに陥落し天皇は隠岐へと流されてしまうものの、後醍醐天皇に味方する各地の悪党は諦めずに戦い続けました。
 この戦局の展開は極めて珍しいといえます。通常、倒幕側の大将たる後醍醐天皇が敗れて流罪となった時点で、倒幕軍は諦めて停戦するものだからです。後醍醐天皇は、自らが生きているうちは戦闘を継続するよう呼びかけていたわけで、その諦めの悪さが功を奏したのでしょう。
 また、悪党・楠木正成の下赤坂城・上赤坂城・千早城での戦いぶりは前代未聞のものでした。武士らしい決闘形式の戦いではなく、糞尿や岩を落としたり塀を外して落下させたり、まるで映画「ホームアローン」のようなトラップを次々と仕掛けて数に勝る幕府軍を翻弄したのです。足利高氏と新田義貞の戦いは武士らしいものでしたが、それ以外の悪党たちの戦い方はとにかく実利を重視したゲリラ戦法だったといえます。
 その後、一度は敗北した楠木正成が再び決起し、幕府がその対応に追われている中、後醍醐天皇が隠岐を脱出します。赤松・千種・名和らが敵の本拠地・六波羅を落とそうと何度も総攻撃を敢行しますが、六波羅はなかなか落ちません。しかし有力御家人足利高氏が裏切ると、あっという間に六波羅は陥落してしまいます。
 一方、関東では新田義貞が上野国で決起し、2週間で鎌倉を滅ぼしてしまいます。
 さて、平氏政権が以仁王の決起(1180年)から5年で滅びたのに比べ、鎌倉幕府は後醍醐天皇の決起(1331年)から僅か2年で滅びてしまいました。なぜこんなに短期間で滅びてしまったのでしょう。
 最大の原因は、やはり有力御家人足利高氏の離反でしょう。護良親王・楠木正成らが幕府と2年間戦ったのに対し、高氏が幕府と戦った期間は15日間だけです。高氏の裏切りさえなければ、鎌倉幕府はまだまだ続いていたかもしれません。
 もう一つ特筆すべきは、倒幕軍の内部で紛争が起こらず、一丸となって戦ったことです。平氏政権を滅ぼすときは、源氏同士での内紛(木曽義仲と源頼朝の戦い)があり、その決着をつけるのに時間を取られていた感があります。今回は後醍醐天皇以下全員が強く結束して戦ったことで早々と幕府を滅ぼすことができましたが、その代わりに、倒幕軍の内紛は幕府を滅ぼした後で発生し、それが60年もの間続くことになるのです。

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