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グランドハイアットの夜に考える人生の意味

少し良いホテルで過ごしても、ボロボロでカビ臭いホテルで過ごしても、一晩の時間は同じだ。酔って寝てしまえば、カプセルホテルでも、すぐに眠れる。でも少し良いホテルなら、ボロボロのホテルよりも内省が捗る。

隣の部屋のテレビの音とか、廊下で騒ぐような品位のない奴とか、そういう周囲の雑音がないからだ。もちろんカプセルホテルみたいに、イビキが聞こえることもない。1人だけの世界で、自分の内面の世界を旅できる。

日本で生きるっていうのは、いつでも雑音に晒されているってことだから、時々ホテルの部屋で1人にならないと、生きるのが嫌になってしまう。

窓から夜景を眺めていると、不思議と急に生きたくなってくる。あるいは不思議と消えてなくなってしまいたくなる。生と死の原動力は、きっと同じ源に違いない。

沢木耕太郎は『深夜特急』の中で、バックパッカーとして危険な国を旅する中で、生に対する執着が失われていく様を描いている。

なぜ東横キッズはビルから飛び降りたりするのだろう?
なぜ中高生は、いじめを苦に命を断ってしまうのだろう?

一番命に執着しているのは、1番安全に暮らしている人間だ。クビになる心配のない仕事をしていて、たとえば日本のように、普通に生きていたら犯罪に巻き込まれることなく、寿命を全うできるような国の住人だ。

そういえば、驚いたことがある。ある日、お店にいた時、少し大きめの地震が来たことがある。私は気にせず商品を選んでいたのだけれど、周りの人たちがささっーと逃げていって、気づいたら店の中には、店員と自分だけになっていた。

どうしてみんな、あの世に行くことをそんなに恐れるのだろう?

生物の選択的には、逃げるのが正解だったのかもしれないけれど、私はその時なにか、人間の卑しさとか、薄情さみたいなものを感じてしまった。

生に執着すると、今この時がいつまでも続いてほしいと願うようになる。安定はイノベーションをもたらすことはなく、国も人も、少しずつ衰退していく。

安全や安定は、ある意味では高くつくということを、先進国や、生涯を保証された会社員たちは身をもって証明してくれている。

レイモンド・チャンドラーの小説『長いお別れ』の中で、レノックスは"ギムレットにはまだ早すぎるね"と言った。

こんな夜にはギムレットを飲めたら最高だけど、もうホテルのバーは閉まってしまった。結局ところ、ギムレットを飲むのはいつがベストなのだろう?

仕方ないから、コンビニで缶チューハイを買う。仕方ないから、氷のないグラスに中身を注いで、非合理的な演出をする。一見すると意味のないことこそが、実は人生を彩る1つの秘訣だというこを、歳をとれば取るほどに感じている。

結局のところ生きることに意味なんてないのだから、色々なことを経験して思い出をたくさん作って、夜景を見ながらお酒を飲んだり、静かなカフェでコーヒーを飲んだりして、たどってきた道を回想するしかないのだ。

旅をするなら若い頃の方が良い。若い頃なら、ボロボロのホテルで背中を曲げながら眠ることだってできる。でも歳をとって、体の節々が痛んだり、多少のお金を持ってしまったりすると、もうそういう旅はできない。

過ぎ去ってしまった時を取り戻そうとするのは、あまりにも寂しすぎる。まわりの誰も肯定してくれなくなった生き方を、お金を払ってキャバクラのお姉さんや、ホストのお兄さんに肯定してもらう。そういう人生は寂しすぎる。そういう大人には、絶対になりたくない。

歳をとると、綺麗にパッケージングされた旅しかできなくなる。でも、綺麗にパッケージングされた旅は快適で円滑だから、どうしたって記憶のアンカーになるような出来事が起きにくい。タクシーでぼったくられたとか、現地人に怒られたとか…

何事もなかったことは、記憶の大事な場所には置かれない。大事な場所に置かれなかったものは、後々思い出すのがすごく難しい。ビデオよりもアナログな記憶装置で、苦し紛れのカラー配色に彩られる。つまりは、回想に耐えられない。

だから旅は、若い頃にした方が楽しいのだ。若い頃に経験したこと、感じたことこそが、死の床での回想に耐えられる、唯一のものと言ってもいい。

死ぬ間際に食べたくなる物とか、思い出す笑顔っていうのは、きっと貧乏時代に食べた、少しお湯を捨てるのが早すぎたカップ焼きそばとか、高校の頃の文化祭の時に、ちょっと手が触れてキュンとしたときの、片想いの子の笑顔に違いない。

本音を言えば、人生のパズルは完成させたいけれど、宝物はパズルの1ピースの方だ。全体で見たら悲劇でも、1ピースを見たら喜劇のこともあるし、その逆もある。

人生に絶望してしまう人たちは、1ピースから全体を類推してしまう。つまり、ちょっと頭が良すぎるってことだ。ちょっとお間抜けな方が、人生は楽しめる。若い頃に、哲学なんて勉強しない方が良い。20歳そこそこで、人生とは何だろう?なんて、あんまり深く考えない方が良い。

誕生日プレゼントにニーチェの本を貰ったら、こっそりと破いて捨ててしまおう。ショーペンハウアーの本が本棚にあるなら、焼き芋の火種にしてしまおう。読んだ感想なら、ネットに腐るほど転がっている。

ビルから飛び降りた少年少女に、私は『おぼっちゃまくん』の漫画を捧げたい。あるいは、『浦安鉄筋家族』でもいい。冗談抜きで、こんなことを考えている。生きることを、難しく考える必要なんてない。

きみはオタマジャクシから産まれた不可抗力の存在で、地球に何の責任もおっちゃいない。

怒ったって、嘆いたって何の得にもならない。政治に怒るな。国に怒るな。先生や、親、上司、部下、恋人、配偶者、子どもに怒るな。嫌なことがあった時は、「人生めっちゃ煽るやん、へけけ」とか言っておけば良いのだ。

万事休す、四面楚歌、絶体絶命。
君の人生の今には、どんなタイトルがつくだろう?

長く生きたいなら、
アホ参上とか、なるようになれとか、仕事でミスって土下座するの巻とか、アホっぽいタイトルをつけておいたほうが良い。

人間は、歳をとると、身体は老いていく。記憶力も老いていく。シワが刻まれ、毛は白くなるか、抜け落ち、少しずつ灰になっていく。
なぜ生物的に、子供を産める年齢が決まっているのだろう?

少子高齢化とか、年金とか、長生きすることは悪のような論調が存在するけれど、じゃあなんで、人間には老いた後の人生が存在するのだろう?

なぜ医療は人間を意図的に生かしたりするのだろう?
医療がなくて、衛生的じゃなかった時代には、人間の平均寿命は30歳くらいだった。

寿命が長いってことは、本当に良いことなのだろうか?
私にはわからない。少なくとも私にとっては、良いことではない気がする。

通勤電車に乗っている人たちがみんな、のっぺらぼうみたいに生気がなくなってしまっているのは、長く生きることを保証されているからなんじゃないだろうか?

30歳で死ぬ人間が、ゆらゆらと通勤電車に乗ったりするだろうか?
理不尽な上司にペコペコ頭を下げたりするだろうか?
絶対にしないに違いない。

安全や安定は鎖だ。
現代人はみんな鎖に縛られている。

鎖を解き放って、何もない自分になる。

仕事も、地位も、お金も、家も恋人も、全て手放して、0になる。0になって旅に出る。何もないと、みんな居ても立ってもいられなくなる。でも一方で、死と隣り合わせの人生は、ドキドキワクワクする。

これから何をしよう?
これからどこを旅しよう?
何の予定もない日に、スタバでIced Shaken Lemonade Teaを飲みながら、窓の外のワンコやオシャレな女の子を眺める。

もう物理的な物で欲しい物なんて、この世界には何もない。欲しい物がなくなると、鎖から自由になれる。
社会はとってもクソだけど、この世界は美しい。

ファウストは、"時よ止まれ、お前は美しい"と言った。私も悪魔のメフィストフェレスに懺悔したい。この世界は素晴らしい。あまりにも、出来すぎている。いったい誰がこんな世界をデザインしたのだろう?

白くてフワフワしたちっこい犬が、女子大生くらいの3人組と戯れている。そこには悪意がなかった。世界のどこかでは、歴史がどうとか、領土がどうとか、兵器がどうとか騒いでいるけれど、少なくともこの場所には悪意がなかった。私はこういう時間がとても好きだった。

ゆっくりと時が流れていく。お釈迦様は菩提樹の木の下で悟りを開いた。私はグランドハイアットで夜景を見ながら、あるいはスタバの窓側の席でIced Shaken Lemonade Teaを飲みながら、人生について考える。

ちっぽけな人生に意味を見出す。ゴミの山から砂金を拾い出すように、生きる意味を拾い集めていく。神様は幸福の粒をゴミの山に放り込んだ。顔や生まれが違うのだから、幸福の形だって十人十色だ。そういう意味では、人生はどこまでも平等だと思う。

都会のど真ん中で、「星が見えない」なんて騒ぎ立てるのは、野暮な人間のすることだ。でも私たちは、いつの間にかそういう人生を歩まされている。

星が見たいなら、夜8時には外が真っ暗になってしまうような場所で寝泊まりするのが一番良い。他人には、あんまり期待しない方が、たぶん幸せに生きられる。明日には、あんまり期待しない方が、たぶん気楽に生きられる。人それぞれの幸せは、きっとあるべき場所にしかない。

今見えているものが好きになれないなら、どこか別の場所に行けばいい。人生の選択肢は誰にでも用意されている。それはどっかの工場の期間工だって、大企業の役員だって同じだ。でも大抵の場合、本人はそのことに気付いていない。

誰もがどんな場所にだって行く権利があるし、ゴミの山から砂金を拾い集める権利がある。腰をあげる体力と、ほんの少しだけ勇気があれば。

私は最後まで、この意味のない人生を旅したい。この旅のにおいを謳歌したい。わからないものに触れてみたい。無難に過ごすくらいなら、恥をかいて笑われる人生の方が良い。そしていつか、死ぬ時に笑って死にたい。

まわりのみんなにも笑っていてほしいから、生きている間は、優しい人間でありたい。死んだ後には、ギムレットを飲みながら、生きていた頃に恥ずかしかったこと、失敗したことを、朝までみんなと話したい。あの世に時間はないはずだがら、きっといつでもギムレットが飲める。

朝起きたら、ホテルのチェックアウトギリギリの時間だった。最悪、朝、プールで気持ちの良い朝を迎えたかったのに…まぁ終わっことは仕方ない。へけけっ、アホだから今日も何とか生きられる。

人生を快適に生きる秘訣は、あんまり深刻になりすぎないことに違いない。会議中に頭をボリボリ掻いてる連中が偉そうにしてて、ぺこぺこしてる人たちが電車に飛び込んでしまうのは、あまりにも悲しい皮肉だ。そういう世の中が変わるように、優しい人間にこそ、もっと図太く生きてほしい。グランドハイアットの夜に、そんなことを考えた。

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