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国という呪縛、国というアイデンティティ

「戦争反対」というプラカードを持ったロシア人が、警察によって強引に連れて行かれる光景をテレビで見た。
ロシアと陸地続きの国々は、「第三次世界大戦」に危機感を持ち始めている。

日本の隣の国では頻繁にミサイルが打ち上げられていて、ミサイルを撃たれるという衝撃的な事実は、もはや誰も気にかけなくなってしまった。
海を渡った恵まれた国々では、「ロシアや北朝鮮に生まれなくて良かった」と、他人事のようなコメントが、ネットに投稿されている。

なぜもっと団結して政府に立ち向かわないのだろう?
なぜ国を出ないのだろう?

遠い国からの疑問は、
傍観者の戯言として、海に沈んでしまう。

どんな両親のもとに生まれるかで、
人生は大きく変わる。
理不尽さも込めて、親ガチャという言葉で知られる運命は、もっと大きく言うと、国ガチャにも当てはまる。

でも私は、べつに北朝鮮に生まれたから不幸せだとか、アメリカに生まれたから幸せだとは思わない。
当たり前だけど、それぞれの国には良いところと悪いところとがあって、圧倒的に悪い面が目立つ国もあるけれど、何もそれだけで、何もかも全てが決まるわけではない。

私はあまり海外に行ったことはないけれど、たまに海外に行くと、「やっぱ日本って良いなぁ」と感じる。

食べ物は美味しいし、良い人が多いし、比較的安全だし、清潔だし、少なくとも私は、日本に生まれて良かったと思っている。

そういうわけで、海外の人たちが「日本が好き」と言ってくれると嬉しいし、日本で暮らす外国人が増えたらいいなと思っている。まぁ移民問題は置いておいてのことだけど。

私は日本が良い国だと思っているから、戦争をやっている国とか、内乱が激しい地域の人たちには、「日本に来れば良いのに」と言いたい。

もちろん、それは想像上の話で、実際には、日本に来たからといって救われるわけではない。言葉や文化の違いで、「安全だけど息苦しい」ということになる可能性もある。

でもそんなふうに言わなくても、北朝鮮みたいに情報規制がされていなければ、「ここじゃないどこか」がどこかにあることを、ほとんどの人たちが知っている。

そのうえで、今日も土着の人たちは、ゾウに鞭を打ったり、捕まる恐怖に怯えながら「戦争反対」と叫んでいるのだ。
なぜそんな非合理的なことをするのだろう?とも思うけれど、結局人は、国というアイデンティティから逃れることはできないのだ。

昔々生きていた人たちは、国というアイデンティティを手に入れるために必死に戦った。
今もまだ、手に入れられていない人たちもいる。

うだつの上がらない日本人が、バンコクにゾッコンらしい。日本人と聞けば、モテるらしく、ゆえにバンコクは、天国らしい。少なくとも過去にはそうだった。今は日本の方が安い国に向かいつつある。

仕事もお金も、恋人も家族も、全てを失ってなお、国というアイデンティティは残る。海外旅行者の間では、日本のパスポートは、最強(ビザ免除の国が多い)らしい。

身体の節々に根付いたアイデンティティは、簡単には拭き取れない。食べ物なら数週間で慣れるし、文化もいずれは染まる。
でも「私は⚪︎⚪︎人です」というアイデンティティは、簡単には消えない。

ゆえに、汚職まみれの国であろうと、失われた30年で国としての地位が下がろうと、人は簡単に匙を投げたりはしない。
同じような理由で、戦争をしている国も、通貨の価値が全然ないような国も、土着の人は今日を精一杯生きている。

だからそういう人たちに、「こっちにおいでよ」とか、「私は良い国に生まれて良かった」なんて言っても無駄だ。

国は呪縛でもあり、アイデンティティでもある。
グローバルに物事を考えてきた大人は、「若い頃に世界を見ておきなさい」と言う。自分の子どもに留学させたり、海外旅行に連れて行ったりする。

どこか遠いところで感じる疎外感とか、爽快感とか、野心みたいなものは、否が応でも自国や自分の立ち位置を思い知らされる。

渋沢栄一だって野口英世だって、国を動かした人たちは、みんな海外を見た。
もしも自分に子どもができたら、高校生か大学生くらいの時に、インドや中国を旅してほしいな、なんて思う。

パーケージの旅行じゃなく、友達や家族とでもなく、ひたすら孤独に、勘と拙い英語だけを頼りに。

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