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「インド」に起因するストレスの分析とその軽減方法-①

誰が最初に言い始めたか分からないが、インド駐在員にはいわゆる、「インドイヤイヤ期」と呼ばれる現象が存在する。インドに駐在・帯同した日本人がインドの何もかもが嫌になる現象のことを半ば自虐的にそう呼んでいる。もちろん各国の駐在生活にそれぞれの苦労があるが、インドでは幼児のイヤイヤ期さながらに、インド民の態度も、インドの食や気候も、インドの法律や制度も、インドの何もかもが何故か嫌になり、無性に腹が立つ時期がある。今回は、インド駐在中の自身の学びから、インドストレスの本質とは何に依拠するのか、どのように軽減することができるのかについて分析を纏めた。

「インド」がイヤになる本質とは?

仏陀は言った、「全ての悩みは、迷妄によって起こる」と。つまり、ストレスを感じるのは、その原因を理解していないことから起こる。インドストレスの根本的な原因は一体どこにあるのか。この考察を経ないことには、インドストレスを軽減する正規のルートは開けない。実は仏陀のこの言葉は現代心理学に基づいたストレスへの対処法、「ストレスコーピング」のアプローチと非常に似ており、今回はこの心理学のフレームワークに基づいて体系的にインドストレスの分析と軽減方法を考察していく。
まず、ストレスコーピングのフレームワークでは次の順序でストレス反応に至る過程を捉える。
 
①  ストレッサー(ストレスの原因になる事実・現象)
②  ストレス認知(ストレッサーに対する認識・感じ方)
③  ストレス反応(つまり、インドがイヤになること)
 

①ストレッサー(インドでは何か起きているのか?)

このフレームワークに従った時、インドにおける「ストレッサー」とは何だろうか。実はほとんどの人がインドのストレッサーの特定を解像度高くできていない。個別のイライラすることが日々起きているが、それがどのような特徴を持った現象なのかうまく表現することができない。この地では大気汚染などの自然条件や独特の食文化がストレッサーになっている側面もある。しかし、インド駐在員や帯同家族の話を聞いているとインドに対していら立ちを覚えるのは、これらの自然現象やモノに対してというよりは、インド民との関りや彼らの態度や生き方に対してである。では、さらに具体的にインド民のどのような態度や生き方がストレッサーとして働いているのか。
目を凝らしてみると、それは、「公平・平等(Fairness and Equality)という概念がインド社会では尊重されていないこと」と言語化できる。
インドで日本人をイライラさせるインド民の行動をもう一度振り返ってみる。
 
・ぼったくり
・契約・約束・時間を守らない、軽視する
・言い訳で逃げようとする
・「あわよくば」取れるだけ取ろうとする精神
・富裕をひけらかす。貧富の差には無関心
・公私混同、会社の私物化
・身分の低い者を顎で使う
・ゴミを捨てる、町をよごす、騒がしい
・身分を見て態度を変えるのを厭わない
 
ここに挙げた各項目はインド民によく見られる行動なのだが、その背景にある共通項に意外に気づきにくい。しかし、「公平・平等(Fairness and Equality)という概念の欠如」という眼鏡をかけて観察してみると、それが共通するエッセンスであることを見出すことができる。どうすれば相手と自分が公平な取引や関係性を実現できるか、一方が不当に便益や被害を受けることがないか、どうすれば相手が不快な思いをすることなく生きることができるか、どうすれば困窮した生活に苦しむ人々が楽になるか、こういった感覚が極端に欠如している事実に直面するのがインドの生活である。

インド民は言う「俺がこの権利を行使するために、お前はその権利をあきらめろ。なぜなら、そうしないと俺がこの権利を行使する妨げになるから」。

この言説は非常に自分勝手で論理破綻しているように見えるが、平気でこの類の主張を展開・行動してくるインド民にはしばしば驚かされる。卑近な例では、「列に横入りをするインド民」がまさにこの典型である。自分が前に行きたいという幸福追求権のようなものを押し通しつつ、他人のそれを侵害している。このような行動や発言をなんの違和感もなくできることは、相手も自分と同じ権利を持っているという公平性・平等性の人間観・社会観が極めて薄い表れでもある。

21世紀の現代に至るまで、公平・平等という概念がインド社会に根付かなったのには、インドの歴史的な背景がある。インドを植民地として統治したイギリスは、統治を行う際にインド土着の様々な社会階層や分断を維持し、時には煽った。植民地政府はインドに存在したカーストの区分をむしろ明確化する方向に動き、国政調査などを行ってカーストの意識を強化した。インド人の軍隊を編成する際も宗教やカーストごとに部隊を作らせて互いに区別・反目するような手法も用いた。イギリスのこの手法は典型的な「分割統治(Divide and Rule)」と呼ばれる手法で、巨大帝国が統治地域を治めるために使う最も典型的な手法であり、イギリスはこの定石を踏まえた統治を行った。

では、20世紀に入りインドがイギリスから独立するときに、公平・平等という概念がインド社会に導入されたかというとそうはならなかった。インド独立の志士たちは、イギリスから独立するにあたり、ヒンドゥー教やイスラム教の伝統的な価値観に戻るという伝統・復古的なベクトルを用いたため、それと真っ向から対立するような公平・平等という西欧発の啓蒙的な概念を導入する方向に走らなかった。ガンジーやネルーやジンナーなどはイギリスでの滞在経験があり、公平・平等といった西欧米社会の価値観を知っていたはずである。しかし、インド人は元来非常にプラグマティックであり、独立国家樹立のために最適な選択が、伝統・復古的ベクトルだと判断したと言える。ヒンドゥー教とその中で語られる死生観や階層こそインドがインドたる所以であり教義そのものであるからだ。これを塗り替えることは背教するに等しく、それは植民地独立どころの騒ぎではない。よって社会改革を行わないまま伝統・復古的なアイデンティティの力によって独立することが最も手っ取り早く力強いベクトルであったと言わざるを得ない。しかし、その選択の対価として、またもや公平・平等という倫理の普遍性を社会に移植することをあきらめてしまった。もちろんインドの憲法ではカースト差別は禁止されているが、現代においても出会い系アプリにカーストを入力する欄すらあからさまにあるのだ。(今回は歴史解説が主目的ではないので、参考文献等は割愛する)

 

②ストレス認知(「公平・平等」とはどれくらい重要か?)

インドには公平・平等の倫理概念の欠如というストレッサーが存在することは分かったが、次はその事実をどのように認知することでストレス反応につながるかを理解するステップが必要だ。公平・平等という倫理観は、様々な倫理感の一つに過ぎないはずだが、我々日本人はこの倫理観をどの程度重要なものと認知しているのだろうか。それによって、この倫理観が満足に尊重されていないインド社会に対する認知反応を理解することができる。

結論から言うと、公平・平等という概念は、基本的人権の一つとして西欧社会が生み出し、我々が受容した最も尊重されるべき概念であることを今一度理解しておきたい。アメリカの独立宣言では、「全ての人間は平等に造られている」ということが第一に強調され、それは人類の基本的人権・普遍的価値とされている。西欧米文明はこの価値観を世界全てに広げ、我々日本もその例外にはならず、この概念を至上のものとして受け入れてきた。意識されないかもしれないが、戦前・戦後を通して日本の教育では、特権階級が徐々に消失し、公平・平等に向かうベクトルで社会や政策が動いてきた。武士は刀を下げなくなり、普通選挙制が実施され、財閥が解体され、累進課税や相続税が発展し、完全学力テストで大学選考と官吏の選抜を行い、華族も廃止され、広範な社会保障年金制度が実施されている。警察は非常に高い取り締まり能力を持ち、何かあれば検察が‘‘正義‘‘の目を光らせる。これらの背景にある倫理哲学は、公平・平等である。フランス革命のスローガンにも、「自由・平等・博愛」という言葉が躍るが、我々現代日本人はとにかく平等そして、公平という倫理観を埋め込まれてきた世代だと言える。そして実際の日本の社会システムもそれに沿って作られている。

公平・平等という概念が極めて重要な倫理感であることを理解しなおしたうえでインドというストレッサーを観察すると、このストレッサーは、日本で義務教育を受けて育った大多数の現代日本人にとって、自分が最も大切にしている倫理が尊重されていない状態と「認知」される。そしてそこから派生する個別の制度や現象や言動に我々が強いストレスを感じているというのが、インドストレスの構造と理解できる。インドと日本のこの根本的な倫理観の乖離はこの文章を読んでいる日本人が全員死ぬまでの時間で埋まるものではない。もちろんインドと日本は様々な歴史や宗教を共有しているが、現代に生きる日本人が大事にするもの・大事にしろと教えられてきたものと大部分のインド民がそれらを尊重するレベルは全く異なる。

③ストレス反応(インド民を見習えない歯がゆさと苛立ち)

価値観が異なる文化に直面するのは、海外での仕事や勉強において至極一般的であるにも関わらず、なぜこれほどまでにインドストレスを感じる日本人が多いのか説明した。しかしながら、現地に「同化」するという方法で、このストレスに対処するという方法はできないのだろうか。西欧や米国に行った日本人が先方の文化を受容し、日本の文化の一部を捨てるという選択を行って現地の文化に対応しているように、インドの倫理観に自分をアジャストしていけばいいのではないか。日本に住んでいるにも関わらずわざわざインターナショナルスクールに幼少期から通わせ、西欧米式の文化や行動様式を子供に学ばせる親もいるではないか。インド文化に対してはなぜ同じようにできないのだろうか。その理由は、公平・平等という概念を曲げてインドに寄せていくことが現在のグローバルスタンダードとされる倫理観や行動様式にも反しており、非常にローカルな様式に過ぎないと我々も分かっているからだ。西欧米の異文化に日本人が直面した時に、舶来物をあがめて受容し、相手側の様式を一部コピーするという我々お得意の選択肢を使えないところに手詰まり感が起こる。そして、認知してしまったストレッサーは、一向にそれに慣れることなくインドに対する苛立ちと「イヤイヤ」として我々を悩ませ続ける。
 
ここまでの話を纏めると、インドストレスの原因は、我々現代日本人が最も大事と教育され、かつ自覚していきた「公平・平等」という倫理観がインド及びインド民社会では尊重されず、そこに同化していくことも現代のグローバルスタンダードからも乖離してしまうため、強い抵抗を認知しながら仕事と生活を行わなければならないという点にある。この心理構造をよく理解してストレスに対応する方法を考えていかねばならない。
 
(次回投稿では、ストレスコーピングのフレームワークに基づいて、インドストレスを軽減する具体的な方法を紹介していきたいと思います。)

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