見出し画像

公認心理師のこれからに期待するもの   【傷つきのない支援に向けて】

前回、「臨床心理士と公認心理師の関係」として、臨床心理士の行うアプローチの在り方を「個別性」、対して公認心理師のそれは「公平性」と捉え、その立場の異なる専門家が協働することで全体性を上げていくことへの期待を書いた。

その中でいわゆる「他職種Gルート」とされる立場に対する私の思いについてもう少し掘り下げて書いてみようと思った。
心理学を学んだことのない人が公認心理師として活動することについて、当初は受け入れられない思いを持っていた私が、今現在どのような心境でこのことを受け止めようとしているのかを、少し長くなりそうだけどまとめてみようと思う。
お付き合いいただけると嬉しいです。

国民の心の健康の為に「なさないこと」

国家資格である公認心理師に求められるものは、「国民の心の健康の保持増進に寄与する」こととされている。そのことからも公認心理師の役割は広く公平に心の健康を目指して働きかけをすることと言えるだろう。

ではそのために「何をなすのか」、という問いに対する答えは幾多あると思うので、ここでは「何をなさないか」と問いを立てて、自分なりの答えを通して公認心理師の役割を考えてみたい。

私が思うに、その答えは「支援を求める方を傷つける」ことである。
「二次被害」
という言葉がある。周囲の心無い言動で被る精神的な苦痛の概念である。また、「医原性のうつ」などの言葉もある。いずれも支援を求めに行った先で更に心の傷を負ってしまうことを含んでいる。助けを求めて傷つけられるのだからたまったもんじゃない。

しかしそんなネーミングがなされる以前のレベルにおいて、相談先で負う大小の傷つき体験はきっとあちこちに存在していて、人知れず苦悩を抱えるといったことは誰しも一度や二度は経験しているのではないだろうか。

例えば、自分の症状について医師に聞きたいけれどためらいがあり、散々迷った挙句、気恥し気に質問したら、「それは気にしすぎですよー。そんなことまで考えていたら余計に眠れなくなりますよ」と一笑されたらどうだろう。なんだか自分がちっぽけに思えて、それ以降はネット検索に頼るようになるかもしれない。

そこで気持ちを一旦受け止めてもらい、「なるほど、そんな心配があったんですね。ただそれは気にされなくて大丈夫ですよ。また気になることが出てくれば教えてくださいね」と返されたらどうだろう。肩の荷が下りた思いと同時に、より主体性を持って病と向き合う気持ちが生まれるのではないだろうか。たった一言でずいぶん違う。

この二人のあり様は、医療界において推奨されている【シェアード・ディシジョン・メイキング(SDM)】 (医療における協働的意思決定)に向かう姿勢でもある。そこには患者自身を体験や回復の専門家とみなすことを内包している。

更にカウンセラーであれば、なかなか言い出せなかったその方のためらいの意味に目を向けて、そこにどのような思いがあったのか、そっと問いかけてみるのもいいかもしれない。

また、子供の発達の心配を抱えた親が学校に相談に行き「おたくのお子さんだけ特別扱いはできないのです」と言われたらどうだろう。
何も特別扱いをして欲しいわけじゃない。理解を求めたいだけなのにと、伝わらなさに戸惑い、次からは先生の表情に気を配り言葉を選んで話すことに疲弊してしまうかもしれない。

このような体験は私の中にも何度かあるのだから、きっと同様の経験をした人がたくさんいると思うのだ。

だだ、これを言っている本人たちに悪気はないので厄介だ。専門家の言葉には時々トゲを含むことがある。自分の知識に自信があること、そして目の前の人の役に立ちたいという思いが強くなればなるほど肝心な目の前の人の気持ちが見えなくなる。

正論を唱えることの中には、自分を気持ちよくさせる麻薬のようなものがあると思っている。きっと私の中にも潜んでいて時々頭をもたげようとしていることに気づく。

前回のnoteでは専門家の存在が限られている地域での弊害を述べたが、臨床心理士がいかに優れた専門性を持っていようと、そこにたどり着くのが容易ではない地域があり、そこではその資格の認知度すら怪しいともいえる。そういう地域で、例えば町の保健師が正論のアドバイスをする前に、まず相談者の気持ちを汲み取った言葉がけで関わったらどうなるだろうと想像してみる。

その人は自分の気持ちを分かってもらえたという安堵に包まれるだろう。ただその効能はそれにとどまらない。自分の気持ちが十分に理解されたという体験は その人の本来持っている力を引き出すものにもなり得る。 人は誰しも自然治癒力というもの持っているのだから、うまくいけばそれ以上悩みを深めてしまうまでに自分の力で前に進めることができるかもしれない。たとえそうならなくとも、支援を求めてきた人が再び傷つきを覚えるようなリスクは当然減ってくる。

更に心について見立てる力があれば、その方にとってふさわしい機関に繋ぐこともできるし、普段から他の専門職と連携しておくことで、希望に応じて紹介できるかもしれない。

他職種Gルートの問題について思うこと

私は週一でカウンセリングに関する勉強会を開いている。 参加者の多数はいわゆる「他職種Gルート」の方々である。そこで心理学の理論や面接技法の基本を紹介し、ロールプレイやブレインストーミングなどを使って、話の聴き方・応答の仕方についてディスカッションしながら深め合っている。参加者から寄せられる感想の中で一番多いのは、「これまでの自分の関わり方に疑問を感じた」「話を聴くことの難しさを改めて感じた」そしてそれらを踏まえて「もっと相談者の気持ちが理解できる聴き方を身につけたい」という前向きな思いである。

公認心理師他職種Gルートの問題については様々な議論があり、立場によって色々な思いが発信される。中には問題を一括りにして貶めようとするものや、ただ単に揶揄して面白がるような悪質なものから、理路整然と考え方を述べられているものまで様々だ。 複雑な問題を孕んでいる上に、其々の人の体験が重なることで、折り合いをつけるのが一筋縄ではいかない問題なのかもしれない。何度も立ち上がったり消えたりを繰り返している。

そしてまた受け取る側の反応も様々だ。「自分のようなものが受験して申し訳なさを感じる」と後悔交じりに話される人、怒りで表現する人、口をつぐむ人・・

勉強会のメンバーには「私は別にカウンセラーになりたいわけじゃない。もっと相談に来られる方の役に立ちたいと思ってここに参加している。だから全然気にしてないわ」と笑顔でさらりと言ってのけた方がいて清々しく感じた。

私自身、近い立場の方の意見に賛同することもあれば、 逆に一見反対のように見える主張の中に、「言いたいことは同じなんだけどな」と複雑な思いを抱くこともある。自分の体験が重なり、発せられる言葉に心が揺れることもあるし、強い批難の言動にはその方にとってそれだけ大切な気持ちがこもっているんだなと感じることもある。

残念ながら実際には明らかに受験資格がなかったような人や、便宜上受験した人もいるようでそれについては疑問視せざるを得ない。他職種Gルートとされる方を一本の線上に並べてみると、真ん中に行くほど曖昧になるように思えて、そんな時私の中で「他職種」の定義も分からなくなる。

ただ、「本来受験資格のあった他職種」の方で、なおかつ相談者のために自分を磨き続けようとしている方の思いにもっと光が当てられるといいなと思うし、またその意欲が削がれたり無用な分断が生まれたりすることがないように(それは翻って国民の心の健康の妨げになるから)、そのために何が自分にできるのだろうかと模索している。小さな試みであっても・・・

ここにあげたことは公認心理師の活動のごく一部に過ぎない。そして私の思いも状況に応じてまた変わるのかもしれない。

ただ他職種の存在を受け入れ難かった私が、様々な方との関りを通して「助けを求めて傷つけられる体験」が減って欲しいという思いを持ち、その為にも其々の専門家が心理についての知識を深めて繋がり合うことへの期待を持つようになり、この問題への認識が変化してきたことを記しておきたいと思った。
最後までお読みいただき有難うございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?