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はじめまして、虐待・貧困サバイバーです

はじめまして

 今さらですがはじめまして。2020年夏の巨乳論争の中心人物になってしまったために、一部界隈では有名人の新月です。ネット論客108星という不名誉な称号も得ました。
 一部の人たちからは「不死身」「異能生存体」「クマムシ」などのニックネームで呼ばれています。柳ジョージ氏の「鉄のララバイ」は好きな歌ですが、一番気に入っているニックネームはクマムシです。
 現在は、甘えん坊のおじいちゃんハムスターと、回し車で走りながらおしっこをするハムスターとの三人暮らしです。アグレッシブおしっこは、やめてほしいなぁ。

子ども時代のこと

 私が生まれたのは和歌山県で、どちらかといえば裕福な家庭でした。祖父母と両親と私の五人家族で、庭付きの5LDKの一軒家に住んでいました。母親がちょっと人格障害? を持っているような人で、少しでも気に入らないことがあると地団太を踏んで絶叫して暴れる癖があり、そのために家族誰も母親のやることなすこと止めないから、エスカレートしているようなところがありました。
 私の一番最初の記憶は、赤ん坊(一歳くらい)の頃に、母親から二階から捨てられたもので、次の記憶は母親に追いかけられて逃げているところです。
 母親からけっこうひどい虐待を受けていて、代表的なものをあげるだけでも、指をライターで燃やされる・指にホッチキスされる・虫を食べさせられる・おしっこを飲まされる・目に殺虫剤をかけられる・「自殺しろ」「レイプされて殺されて来い」などの暴言を吐かれる・熱いてんぷら油を浴びせられて大やけどする・肺炎になっても病院に連れて行ってもらえずに死にかけるなどです。
 何をするにも母親の許可が必要で、彼女の機嫌が悪い時はトイレを使えずにバケツに排泄していました。家から外に出るのも、母親の許可制で、ほぼ軟禁状態で育ったので、地元和歌山のことはまったく何も分かりません。地元の観光スポットや、地理を尋ねられても、家からほとんど出たことがないので知りません。地理の教科書に書いてあることくらいしか分かりません。

家族のこと

 私が母親からひどい扱いを受けていることは、家族や親戚たちは知っていましたが、誰も母親を止めませんでした。それどころか私に対して「お母さんの言うことをちゃんと聞かないからそんな目に遭うんだ。だからお母さんの言うことをきいていい子でいろ」と言っていました。
 でも母親は毎日、言うことをころころ変えるので、言うことをきくのは不可能だったなと思います。私自身、どれだけ殴られようが燃やされようが、母親の言うことはききませんでした。
 私の子ども時代の思い出は楽しいものは何もなく、早く大人になって母親から解放されたいと考えていました。非行に走ったり、家出をしたら、大人になった後の将来に影響を及ぼすだろうと子どもながらに考え、成人するまで我慢しようと決意し、ただひたすらに忍耐していたのが私の10代の青春の日々です。今、耐えておけば大人になった時に必ず報われるとひたすら我慢していました。
 おかげで、大人になった今の私には非行歴も犯罪歴も前科もありません。しかし、高校・大学と病気になって中退したので学歴もありませんが。

二十歳前後のころのこと

 結局、大学卒業までは我慢しようと、ひたすら耐えていたのですが、大学に入って実家を離れ、安全な場所で暮らせるようになったことと、それまでのストレスが積み重なっていたことで精神を病んで、大学を中退しました。大学中退しても実家に帰るつもりはさらさらなく、雲隠れしようとすべての連絡を絶って東京で暮らし始めました。
 といっても、手持ちのお金はほとんどないし、住む場所もないから、出会い系で知り合った男性を頼って、セックスを提供する見返りに親戚のふりをしてもらい、ウィークリーマンションを借りて、お金が早急に必要だったために風俗で働き始めました。
 風俗で働きながらお金を貯めて、就職活動もし、アパートを借りて昼の仕事を得ました。それで、保証人が必要だと言われて、従兄に保証人を引き受けて欲しいと連絡をしたら、両親に私の居場所を知らされてしまいました。
 仕方がないので、私は仕事も家も諦めて夜逃げをしました。この時、着の身着のままで逃げたので、ホームレスになり、しばらくはネットカフェで寝泊まりしていましたが、手持ちのお金が尽きそうになったので、区役所に助けを求めに行きました。
 しかし、区役所では「保護対象外です」と言われ、福祉に繋がれずに追い返されてしまい、途方にくれました。お金もないし、役所は助けてくれないしで、困っていたら路上でたまたま知り合った男性の家に泊めてもらえました。その後、セックスを見返りにすることで保護してもらいました。
 この時ほど、自分が女で良かったと思ったことはありません。私が男だったら、あのままホームレスを継続していたでしょう。
 しばらく、その男性の家に厄介になっていたのですが、アルバイトをしたり風俗で働いたり、福岡に移住してまた風俗で働いたり、気ままに暮らしていました。
 両親に居場所を知られないために、住民票を放置していたので、保険証もなく、社会から爪弾きにされた存在として生きていました。そのうちにアルバイトで貯めたお金で、その男性の家からゲストハウスに移り、そこからシェアハウスに移って水商売をやってお金を貯め、今住んでいるアパートに引っ越しました。

精神病のこと

 精神科で鬱病・PTSDの診断を受けていて、精神的な問題であまり働けておらず、貧困状態でした。生活保護費以下のお金で暮らしていたので、病院にはかかれないし、カウンセリングも受けられず、一生このままなのかな? と毎日悩んでいました。
 それでも、私は自分の人生を取り戻したかったので、トラウマ治療の本を参考にしながら、自己治療を開始し、筋トレをやったりしながら、鬱病とPTSDを克服していきました。
 PTSDからの回復で、一番効果があったのはやはり筋トレです。このころはお金がなかったから、プロテインなんて高価なものは買えないし、肉類も高いから、お米と卵ともやしが主食でした。お米は一回の食事で一合半、卵は三個くらい食べてたので、お米と卵の減りが異様でした。
 ジムに通うお金なんてないから、Youtubeと筋トレブログを参考にして筋トレをしていたのですが、焦りがあったために、「動けなくなるまで筋肉を追い込む」ってことをやっていたので、毎日、筋肉痛がひどすぎて痛み止めがなければ寝れませんでした。
 おかげで、随分とムキムキにはなりましたが、もう二度とあんなむちゃくちゃなトレーニングはしたくないです。ほどほどでいい。
 しかし、むちゃくちゃやったおかげか、鬱病もPTSDもすっかり克服して、むしろ以前よりもなんだか精神的にタフネスになった気がします。スタイルも良くなって、ボンキュッボン体型になりました。

PTSDを克服したこと

 精神状態が回復したら、社会生活をどうにかこなせるようになり、マッサージ業を長いこと続けていました。リラクゼーション業界は超絶ブラックで、実態は労働者であるにも関わらず、業務委託契約だったので、収入は低くて、下流階級に属していました。
 それでも「まあ、金はないけど普通に暮らせるし、いいか」と思ってのんびりと暮らしていたら、コロナ禍に襲われて、職場が吹き飛ぶかもしれない状態に陥りました。
 ちょうど、その前年はマッサージ業を休んでフリーター生活をしていたために、持続化給付金の対象外となってしまい、また制度の穴にすっぽりとはまってどうしようかと落ち込んでいました。
 それでも、とやかく言ってもこういう問題はどうにもならないから、コロナ禍が終わるまで生き残ることに集中しようと節約しつつ、少ない貯金を切り崩しつつ、どうにかしていました。
 コロナが終息するのはいつかなぁ? なんて思っていたら、たまたま出版関係の方から声を掛けていただき、2021年の春に出版社に入社しました。
新しい生活に慣れるのに精いっぱいで、筋トレはサボっています。少し筋肉が落ちました。
 こんな感じで、波乱万丈で愉快な人生を送っています。

商業出版のこと

 2021年夏ごろ、ここに書いた私の「虐待・家出・貧困」体験談が書籍として出版されます。色々と決まったら、またnoteやツイッターで告知します。

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