過激化する表現の自由規制反対派

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1.初めに

 2020年9月下旬にかけ、表現の自由規制反対派から総攻撃を受けたことに対する私の見解です。これはあくまでも私個人の見解であり、推測考察の域を出ないことを始めに述べさせてもらいます。また、私も表現の自由規制反対派であり、創作物に関する制限には反対の立場であります。
 私の立場は「表現の自由は守られるべき。ただし、誹謗中傷や侮辱はいけない」というものです。表現の自由の範囲内に、誹謗中傷・侮辱が入っているとは思っていません。
*創作物で、意図せず侮辱と受け取られてしまうことはありますが、それは受け手の受け取り方に依存するものであり、決して意図的に誹謗中傷・侮辱を行うものではありません。


2.各言葉の意味

 先に、侮辱・誹謗中傷と批判の区別がついておらず、混同している方が大勢いたために各言葉の意味を記しておきます。このように、侮辱・誹謗中傷と批判は明確な違いがあり、同じ意味で用いられることはありません。言葉の意味通り、侮辱・誹謗中傷は明確に他者や名誉を傷つけるものです。

侮辱―[名](スル)相手を軽んじ、はずかしめること。見下して、名誉などを傷つけること。「侮辱を受ける」「他民族を侮辱する」

誹謗中傷―[名](スル)根拠のない悪口を言いふらして、他人を傷つけること。

批判―[名](スル) 1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を批判する」「批判力を養う」
2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の批判を受ける」「政府を批判する」
3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。

goo 国語辞典より


3.日本国憲法第十二条

 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 公共の福祉の解釈については、諸説あるためにここでは解説を行いません。私は法学について浅く、解説を行えるだけの知識量がないためです。

4.国際人権規約二十条-2

 差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する。

*宗教的象徴への侮辱は人権侵害です。


5.経緯

 この騒動の発端となったのは、とあるツイッターユーザーの行った宗教への明確な侮辱発言でした。宗教的象徴に対し、はっきりと「クズ」と述べたのです。当然ながら、これは明確な宗教ヘイトであり、ツイッタールールにも違反する行為でしたので、多くの批判が集まりました。私もまた、批判をしたうちの一人です。過去にこの宗教がらみで殺人事件が起きていることもあり、そのユーザーを心配する声も上がりました。この騒動はそのユーザーが批判されて終わりだろうと思っていたのですが、表現の自由戦士の代表格とも言える人が、そのユーザーを擁護する発言をいたしました。
 曰く、宗教預言者を侮辱する発言もまた表現の自由であると。私は表現の自由の範囲には侮辱は含まれていないという認識でした(今もそうです)ので、その発言に対する批判を行いました。結果として議論になり、その間に宗教預言者への侮辱発言を庇った方がその宗教信者がテロリストともとれる発言を行いました。その後、「信仰を侮辱する自由」というパワーワードが飛び出しました。
 そして、その人との議論はそこでいったん終わらせたのですが、「侮辱の自由」というパワーワードが出たためか、表現の自由に対する認識が違う私の異なる意見が気に食わないためか、私に対する批判が殺到しました。
 批判と言いますが、私のところに来る人々にはこちらの意見をくみ取る気は感じられず、「侮辱や誹謗中傷も表現の自由であり、規制しようというのか」「自由には責任もある。撃っていいのは撃たれる覚悟のあるやつだけだ」などと、一方的に価値観を押し付けて来るものばかりでした。私は良識や道徳が必要なのだと反論しましたが、法律では禁止されていないというようなことを言われましたので、日本国憲法に書かれている「公共の福祉」と国際人権規約20条を盾に反論を行いました。宗教的象徴への侮辱は人権侵害であると。
 そうしましたら、本職の弁護士が参戦し、宗教への侮辱は問題ないというようなことを言われました。仕方がないので、ツイッターのプラットフォームでは宗教ヘイトはルール上許されていないことと、プラットフォームを使いたいならルールは守るべきだと反論を行いました。
 結局、表現の自由規制反対派から総攻撃を受け、ブロックしてもスクリーンショットで粘着されたり、ブロック越しに引用RTされたりしました。


6.概念上の自由と自由権の違い

 今回、概念上の自由と「自由権」を混同している方を大勢見掛けました。概念上の自由とは、他からの制限を受けず、自らの意思・本性に従っている状態のことであり、「自由権」とは法治国家において「公共の福祉=他者の人権」に反しない範囲でのみ行使できる権利のことです。
 極端に言ってしまえば、概念上の自由には「殺人を行う自由」も含まれています。「自由権」には殺人を行う自由は含まれておりません。殺人という行為は他者の人権を侵害する行為であり、公共の福祉に反するからです。
 このことは誹謗中傷や侮辱にも言え、「自由権」には他者の人権を侵害するそれらの行為は含まれておりません。


7.誹謗中傷や侮辱における責任とは

 今回、誹謗中傷や侮辱の自由を唱えた方々は口を揃えて、「それらの自由はある、ただし責任も伴う」と言っていました。
 しかし、誹謗中傷や侮辱は人権侵害です。著しく他者を傷付ける行為であり、SNS上の誹謗中傷が原因で若い女性が自死されております。
 責任とは、刑罰を受けるという意味でしょうか? 刑罰を受ければ、傷付いた心が元に戻るのでしょうか? 死んだ人は蘇るのでしょうか? 傷付いた心は元に戻ることはありませんし、死んだ人は蘇りません。ならば、責任を取れるはずもないのです。


8.何故、一部の表現の自由戦士が過激化したと思ったか

 表現の自由・言論の自由を謳いながら、異なる意見を述べた私に対して総攻撃を行い、こちらの意見を聞くこともなく、原理原則に極端に従った自由という価値観を押し付けて来たことから、過激化していると判断しました。
 表現の自由と言うならば、異なる意見もまた、それを述べる自由があるはずです。しかし、大勢で攻撃を行い、それによって黙らせようとし、こちらの意見を一方的に否定する様はまるで弾圧のようでした。また、私にいやがらせをするために、過去の虐待のトラウマをほじくり返して土足で踏み躙ったことに関しても、気に食わない相手には何をしてもいいのだという心理が透けて見えました。
 ブロックをしてもスクリーンショットや引用RT(被ブロック相手を引用RTするためには一度ログアウトし、URLを取得する必要があります)で粘着されたこともそうです。
 原理原則に極端に従った表現の自由という価値観を至高のものとするのは構いません。それも個人の自由です。しかし、それを至高の価値観とは認めずに「秩序ある自由」を求めるという価値観を否定し、「自由を規制しようとしている」と叫ぶ行為は、まさに過激そのものでした。
 異なる意見・価値観を決して認めようとせず、原理原則に従った表現の自由こそが至高だとする価値観を他者に押し付けることは先鋭化しており、視野狭窄であり、過激としか呼びようがありません。


9.原理原則に従う極端な言論の自由が横行するようになれば

 当然ですが、言論の無法地帯ができあがり、誹謗中傷や侮辱によって自殺や殺人が起こります。そういった事件が増えれば、世論は確実に「規制」へと傾きます。世論は感情的であり、理屈で行動をしていません。また、人の感情というものは理屈や論理で止まることは少ないです。
 一度、規制されてしまえば表現の自由は文字通り死にます。
 表現の自由を守るためには、モラルを守る必要があります。意図的な誹謗中傷や侮辱を避け、良識を持って言動を選ぶことが、結果として表現の自由を一番に守る行動に繋がるのではないでしょうか?
 少しでも譲歩すれば規制されてしまうと叫ぶ人もいますが、避けるべきは創作物内での誹謗中傷や侮辱ではなく、現実世界での「意図的な」誹謗中傷や侮辱です。創作物と現実は分けて考えてください。そして、一人一人が良識や道徳を持ち、与えられた「自由権」を行使することを強く望みます。

10.最後に

「表現の自由は守られるべき、ただしヘイトは許されない」

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