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【美術】ローカルが あってナンボの グローバル

 高校時代の現代文の鬼教師による読書感想文の宿題。時系列は前後するが、その12作目の粗筋は、私の記述によると次のようなものだった。
 「一六〇〇年代初期、鎖国中の日本で、キリスト教は大きな迫害を受けていた。そこで、日本の信徒を救い、ポルトガルのイエズス会が派遣したフェレイラ教父の消息を探るため、三人の若い司祭は立ち上がった。しかし、一人は病に伏せ、澳門で日本人・キチジローを見つけ、日本の漁村・トモギ村にひそかにたどり着いたのは、ガルペとロドリゴの二人だけ。しかも、炭小屋に隠れ住む生活も長くは続かず、役人達の手が伸びはじめると、二人は分かれて逃げることにした。ところが、ロドリゴは追手に怯えながら山中をさまよう中を、弱虫のキチジローによって役人に売られ、長崎郊外の牢舎で暮らす。さらに、役人の手によって海に呑まれていく信徒達、それを追って力尽きていく同僚・ガルペの姿を目の前に見せられ、彼にとって苦悩の日々は続く。そしてついに、沢野忠庵と名を変えたフェレイラ師に促されて、彼は踏絵に足をかけると、日本人として長崎、江戸で暮らすのだった。」・・・「読みはじめ」は「93年1月1日」、「読みおわり」は「93年1月8日」、「延べ時間」は「20時間」。冬休みの宿題だったのだろうけど、元日から遠藤周作の『沈黙』を読むとは、なかなかヘビーな正月ではないか。16歳の私は、弾圧される側の痛みをどのように受け止めつつ、初詣の鳥居をくぐったのだろうか。縦書きの所定用紙の左側、「この本を読んで、どのように思ったか」と問う欄を埋めた鉛筆書きの文章には、是非その辺りの所懐を期待したい。
 粗筋に引き続き、私の感想文は次のようなものだった。
 「どうして彼らはこれほどまでに苦しみに耐えたのでしょうか。これが、信徒でも司祭でも異教徒でもない私の素直な感想です。しかし、基督を厚く信仰し、どんな試練も恐れぬ彼らにとっては、愚かな問いにすぎないのかもしれません。『日本の崇めるキリストは我々の神とは違う。』『日本という沼沢地に基督の苗は実らない。』たとえ彼が偽っていたとしても、こういったフェレイラのあきらめの言葉を聞いて、私は鎖国政策の愚かさを感じました。現代でこそ国際的な国へと発展した日本であるものの、視野の狭い島国根性がこの国から抜けきったとは言えないと思います。島国根性は、自国の文化を大切にすることとは異る危険な考えです。また、宗教の自由についても同じことです。いろいろな考えの人間がいて当然だと理屈ではわかっていても、ある神を固く信じて祈りつづける人々、ましてそれが変わった新宗教ともなると、彼らを偏見の目で見てしまうのはなぜでしょうか。それは、我々の目で『変わっている』と思うだけであり、基督教の行事であるクリスマスを祝い、お正月を迎えると仏教や神道の門をくぐる大部分の日本人の方が変わっているのかもしれません。それが善いか悪いかは別問題ですが、私も『自分の苦しんでいる時だけの神だのみでは、本当の信仰心ではない』と彼らに怒られてしまいそうです。けれど、自分の考えをもち時にはそれを発言すること、また他人の考えに耳を傾けることだけは大切にしたいと思います。だから、一見無意味そうに感じるロドリゴと井上やフェレイラとの義論は、いつも私の興味を誘いました。
 無宗教の自分がこれだけは強く感じたというものがあります。それは、宗教、思想、そういったもので区別することのできない愛そのものでした。ロドリゴはついにあの踏絵に足をかけた。私は、強い信念をもって日本に渡り、神や信仰について悩み、祈りつづけた彼の行為だからこそ、それを最も大きな愛の行為だと信じたいのです。」・・・これが高校1年生当時の私の宗教なるものに向き合う考察の限界だったようだ。「異なる」を「異る」と書いてしまったのは、「行なう」と「行う」のどちらも通用することに似た感覚だったものと推察されるが、見事に鬼の減点マークが赤ペンで付いている。一方、「議論」を「義論」と書いているところは減点されていないのが気持ち悪い。まさかライプニッツの神義論を略して「義論」としたのか、それとも作品の引用であったのか。
 恰も「島国根性という危険な考えが抜け切れていないから、新宗教を偏見の目で見てしまうのではないか」と問題提起するかのような論調だが、「鎖国政策」が「愚か」で、「国際的であること」が「発展」だとする立場にも偏見の要素が潜んではいないか、そもそも「偏見」とは何物なのか、このあたりに踏み込んでいないのが若干物足りない。おそらく2年生以降に少しは“視野”を広げるのだろう。
 いつの頃からなのか、何かきっかけがあったのかは憶えていないが、その後の私は現在に至るまで「鎖国も悪くないな」と半ば本気で思い込んでいる。無論、エントロピーの法則なのか、人間に宿った本能なのか、それが貿易だろうと干渉だろうと侵略だろうと、外の世界に触れようとする力を完全に抑え込むことは不可能だと承知している。が、地球上の全ての国が鎖国すれば、今すぐ戦争はこの世から消える。内戦は止められないだろうけど、同胞同士の争いは絶滅の道を選ばない。せいぜい関ケ原で決着する。事実、江戸期の約260年間に亘り、対外戦争は一度も無かった。そりゃ、食糧やエネルギーの自給率は試練になるだろうけど、それこそ独自の技術力や社会実証が萌芽するかもしれない。その上で、どうしても外国と交流する余地を確保しておきたいなら、それこそ「出島」的な窓口に限定すればよい。異文化というのは余りに多く流入してしまうと、国際的な気分は味わえるけど、それに麻痺してしまう印象がある。まず自分達に誇れるオリジナルの商品価値があればこそ、周囲の友人達とその価値を交換できるのではないか。異文化とは“適度な”質と量であればこそ、それが受け入れられ、我が国固有の文化とマリアージュし続けるというものだろう。その点、古くより自国以外のエリアを「海外」と称することの出来た立地条件は、とても恵まれていたのかもしれない。これが陸続きだったとしたら、黒船を目の当たりにする刺激も無いうちに、ペリーみたいのが何百人も何百回も訪れて、ややこしい事に巻き込まれていたかもしれない。実際、海を隔てたペリーとの距離が近づいてしまって以降、色々あって、まさに日本はややこしい状況となり、現代にあっては「米国との同盟に下支えされた戦争放棄」という難問と生涯マリアージュせざるを得ない事になっているではないか。島国に生まれた者としての自己を確立することもなく、いくら英語や英語圏を勉強しても、欧米人の贋作になるだけ。「学ぶ」の語源は「真似ぶ」と謂うけれど、そういうのとは聊か趣が異「な」る。私は、西洋を無邪気に礼賛する「島国根性」こそ「この国から抜けきったとは言えないと思います。」
 そんな内容のほんの一欠片でも当時の読書感想文に垣間見えたなら、オトナになった私は相当に熱を帯びるのだろうけど、きっとこれで良かったのである。「英語や英語圏の勉強は必要な奴がすればよい」なんて、高校生には十年早い。必要か否かの判断は、四の五の言わずに勉強した後の話である。余談ながら、中学から高校まで6年間かなり真剣に勉強しても圧倒的多数の日本国民が英会話を身に付けられないという教育スタイルは、異文化の流入を「“適度な”質と量」に抑制する調整弁として図らずも機能しているのかもしれない。だから、尚更のこと、高校生は安心して必死で英語の学習に打ち込めばよいのだ。その上で、日本史を学び、世界史を学び、漢文・古文・古典を学び、そして「美術」を学べば、その結果、君の確立した自己が答えというものだ。
 
 「ちょっと大袈裟かもしれないけど、祈りを捧げる気持ちから絵は始まったとも云えるね。そうだなあ、君たちに身近な日本の神様の絵を挙げるとしたら、宝船に乗った七福神かな。でも、あれは『祈り』というより『流行り』『縁起担ぎ』みたいなものだし、純和風に見えて実は助っ人外国人だらけのチームなんだよ。大黒天はマハーカーラ、弁財天はサラスヴァティ、どっちもヒンドゥー教の神様ね。布袋さんも中国の僧侶だったと謂うし、福禄寿と寿老人も道教に由来しているから、インドと中国の連合軍みたいな感じかな。
 不思議と西洋みたいに『イエス一筋』ってテイストが無いんだよね。今日のテーマにも出てくるけど、キリスト教美術のスケールや影響力って凄まじいのよ。優劣の問題じゃなくて、文化や思想が異なるって云うのかな。日本の信仰って結構いい加減なのよ。裏を返せば、何でも有難がるタイプ。ほら、日本の首都が奈良県の明日香村あたりだった頃、たくさん古墳を作って、壁画を描いていたでしょ。よく教科書で見るあの四神っていうのも、もちろん中国の神様なんだけど、朝鮮半島の古墳にも多いんだ。すでに百済から仏教が伝来した後にも拘らず、仏様を描いたわけじゃないんだよね、不思議にも。」
 ・・・美術の先生は常に穏やかな表情、穏やかな眼差し、穏やかな声で人生を説いた。「人生がつまらないと思ったときは自画像を描け。誰だってどうせ骨になる。目も耳も2つで、口は1つ。全員同じなら『自分らしさ』なんて要らなく思えてくる。自画像を描く前のキャンバスは全員真っ白。一度、自分を無くしてみたら?すると、自分の価値観の狭さにも気付けるようになるし、自分と異質な他人も許容できるようになってくるよ。」という言葉は、知命も近い齢となった今でも御経のように唱えることがある。
 この日の私も先生のお話に感化されていたのか、まさに「助っ人外国人」の存在を「何でも有難が」っていた。贔屓球団が珍しく優勝争いを演じていたのである。私が保育園児で野球のルールも十分に理解してはいなかった時分にチームを優勝へ導いた監督が、再びユニフォームに袖を通した1年目のこと。“親分”の愛称で親しまれたこの名将の采配の下、左の主砲が四番、右の主砲が五番、ともに外国人で、四も五も無い成績を残してくれた。結果こそ僅か1ゲーム差で当時は常勝軍団だった獅子に覇権を譲ったものの、大健闘に日々胸を躍らせていたのが、私の高校2年生である。
 獅子は百獣の王だが、四神には非ず。この年の最下位は後の世に常勝軍団となる鷹。ホークスの本拠地は、平成元年、私の中学校入学と共に福岡へ移転する前は、南海の難波だった。従って、四神は覚えやすかった。平安京の位置から見て、東方面が名古屋でドラゴンズの青龍、西方面が甲子園でタイガースの白虎、そして南方面が“ミナミ”と呼ばれる難波で、鷹ではないけれど同じ鳥類ということで朱雀。こんな風に暗記するのだが、北の玄武だけは該当する球団が存しない上、亀と蛇がドッキングした奇抜な体貌にも魅了され、却って真っ先に覚えてしまった。まさか、この年の11年後に我が贔屓球団が北海道へ“遷都”することになろうとは――但し、マスコットは亀でも蛇でもなく、熊だった。
 ところで、「日本の信仰って結構いい加減なのよ。裏を返せば、何でも有難がるタイプ。」と先生は仰せだった。けれど、知命も近い齢となった今聴けば、やや違和感がある。広辞苑によると「裏を返す」とは元々「初回の遊女を再び呼ぶ意」だと謂うから、寧ろ「何でも有難がる」のとは真逆で「一人の観音様を一途に拝み続ける」イメージをも同時に抱いてしまうのだ。あの店で春奈を指名し続け、遂には互いの住まいの中間地点にマンスリーマンションなんかを借りて愛人関係にまで達した私のような「一途」は、日本の信仰と真逆なのではないか。いや、訂正しよう。その後、春奈と別れた寂しさを如何にか紛らわそうとした私は、ミナミのホテヘルでお気に入りのお嬢とシャワーを浴びる習慣を作った挙句、幾度も肌を重ねるうち、普通の恋人同士のように打ち解け合ってしまったのだから――。帰する所「一神教」どころか「何でも有難が」っているではないか。斯様な私の腐るほどの人間臭さをも神様はお救いくださると云うのか。
 
 「我が国固有の神道は、自然現象を擬人化しているから、ギリシャ神話に似て兎に角『人間臭い』のよね。山の神、海の神、もっと言えば、机の神、椅子の神、黒板の神っていった具合に、万物に神が宿っている。で、神主さんの祝詞――これは純粋な大和言葉なんだけど――この祝詞によって神様へ私たち一般人の願いが通じるらしい。で、その願いとは、災厄から逃れて現在が幸せならそれでいいって感じ。過去や未来といった世界観も持たないし、特に複雑な教理を構えているわけでもない。
 そんな日本に仏教が入ってきたんだけど、さっそく奈良時代に国政と結び付いて振興した割に、民間に浸透していくのは平安時代になってから。貴族の文学にも登場するんだけど、どちらかというと娯楽の1つのような感覚だったらしい。例えば『枕草子』なんか、若い僧侶が美男子で弁舌が爽やかだと耳を傾けたくなっちゃうみたいなことを記してる。ああ、これ全部、古典の先生の受け売りだから間違いないよ。だけどね、神道と違って、教理は学問そのもの。首都が奈良だった時代には、死後の利益を祈願する本来の仏教の姿を語っていたんだよ。それがね、首都が京都へ遷ると、難しい理屈を並べていたのがイヤだったのかなあ、仏教が衆生に普及したとは云っても、それは現世の具体的な願いに応えるやさしい宗教へ徐々に変化していったってこと。何も熱心な信仰者が増加したってわけじゃないらしい。ここが、少なくとも我が国においては、キリスト教とは決定的に違う点かな。
 大体、大昔から日本では神も仏も一緒だったんだよ。神仏習合って聞いたことあるでしょ。神道の伝える『現世の救い』と、仏教の伝える『来世の救い』と、どっちにしようかみたいな話になって、仏様が神様に姿を変えて皆を救済しているとする考え方を慣習化しちゃったんだ。それが明治に入ってから急に問題になって、神道を国教化したかった政府が神仏分離令を発しちゃうって流れになるわけ。そのくせ西洋のモノマネに夢中になって、調子に乗ったら戦争でやられて、焼け野原にされた後の憲法で『信教の自由は、何人に対してもこれを保障する』ってことになった次第、チャンチャン。ねっ、日本の宗教の扱い方って、結構いい加減なもんでしょ。
 
 というわけで、ようやく絵の話に戻そうか。宝船の七福神と古墳の四神だけのことじゃないよ。仏教もそう。お寺に行くと分かるよね。あんなに仏像は豊富なのに、絵画は意外と少ない。涅槃図や曼荼羅といった幾つかの様式はあるけれど、やっぱり西洋の宗教画ほど多種多彩に満ちたものは他に見られないんだよね。
 さぁて、ここからがやっと授業の本題――配ったプリントを見て。始めに断っておくけど、退屈だよ。西洋美術史っていうのは、教科書的な解説を読んで“習得”するようなものじゃなくて、出来れば現物、無理でもレプリカや写真集をじっくり鑑賞して“体得”するような領域なんだよね。先生の言いたい事、何となく解るでしょ。でも、やるよ、授業だから。
 『美術』の起源は宗教と切り離せないんだよね。これは一貫して今まで君たちに話している通り。日本が縄文時代だった頃、古代オリエントの美術が花開くんだ。オリエントって解る?『日の昇る方向』って意味で、インダス川流域から小アジアの地中海沿岸までの地域のことね。メソポタミア文明は、聖塔(ジグラット)を中心に守護神を祀る神殿建築が特徴で、現世や現実を重んじるんだ。エジプト文明はピラミッドに象徴されるように『墓の芸術』とも称されている。ナイルの氾濫で肥沃な泥土が豊かな収穫を齎すから、これが復活の観念に結び付いて、死後の世界における永遠な生を求める信仰に繋がったんだ。日本が土器を作っていた時期にミイラや仮面を作っていたんだから、宗教観がまるで違うよね。ギリシャ美術は色々と分類されるんだけど、代表的なのはアルカイック美術ね。男性的な力強さのドリス式神殿、女性的な優雅さのイオニア式神殿、この2つの大きな対比がギリシャ美術を支えたんだよ。それと忘れちゃいけないのはアルカイック・スマイルね。解説には『内部の生命力を顔面に表現』なんて書いているけど、見るのが早いよ。これ、こういうの。モナリザとスフィンクスと菩薩半跏像を並べてみた。こうすると微笑み方の特徴が掴めるでしょ。ギリシャは他にもパルテノン神殿みたいに気高い調和と比例の理想的な完全さを生み出してみたり、肉体の自然表現や運動の自由表現を生み出してみたり、彫刻に優れたクラシック美術を確立している。
 で、中部イタリアのエトルスク人がヘレニズム美術の影響を受けて形成したのがローマ美術ってことで、ここで絵も出てくる。セメントの発見と穹窿建築法によって、水道橋とか大浴場とかコロッセウムとか、帝国の巨大な建築物が目立つけど、ポンペイ遺跡の壁画には空間と遠近法の問題が現れ始めているんだよ。――ああ、さっきから先生が建築物や彫刻よりも絵画を強調しているのは、これから君たちに自画像を描いてもらうからだよ。絶妙なアルカイック・スマイルの自画像を頼むよ。因みにローマ人が凱旋門を作っていた時期でも日本は弥生土器を作っていた。
 で、日本でも壁画を描き始めたであろうと推定される古墳時代と、初期キリスト教美術の栄えた時代がちょうど重なっているあたりにロマンがあるんだよねえ。まさか、仏教伝来の凡そ千年後に基督教まで伝来するなんて全く想像していなかっただろうね、大和の人々は。
 中世の西洋美術史は、キリスト教の文化そのものなんだ。美術の役割は『石の百科全書』『文盲者のための聖書』を作ろうって感じで、信仰を具体的に教えること。教会の役割は当然ながら祈りや儀式が基本だったんだけど、それだけじゃなくて、日常の会合所、学校、人々の慰安と娯楽の場所でもあったんだ。だから、音楽も演劇も美術も、教会を主体とした信仰の世界の中で活性化したんだね。プリント2番に移って、A1の写真を見て。夥しい量の骸骨が不気味だけど、その整然とした並べられ方、それに十字架の装飾や壁画の荘厳さが、パッと一目で『美しい』と感じられるでしょ。これがローマ皇帝の迫害を避けるために作られたカタコンベという地下墓窟で、初期キリスト教美術の始まりだったんだよ。バジリカ形式の教会が地上に建てられたのは、313年の『ミラノの勅令』でキリスト教が公認された後の話。お墓を作る理由が、飛鳥の古墳とは驚くほど違うでしょ。で、330年、コンスタンティヌス大帝によって都が東方ビザンティオン、現在のイスタンブールへ遷ると、ギリシャの洗練されたヘレニスティック文化の優雅さに、東方固有の神秘な力強さの伝統が融合する形で、円蓋バジリカ形式が生まれる。聖ソフィア大聖堂――B3の写真ね。世界史の教科書でも見たでしょ。素晴らしい!一度は行ってみたいね。ビザンティン美術では、フレスコ画も登場し始めるよ。それが田園風景の中でロマネスク美術が育つと、モザイク壁画に反射光を取り入れたりもするし、街中でゴシック美術が育つと、透過光を利用したステンドグラスの絵も出てくる。
 で、そういう様々な要素があって、ここで一旦美術史がリセットされて、14~16世紀のルネッサンスに辿り着くというわけ。日本じゃ室町から桃山の時代。ルネッサンスは『再生』って意味ね。教会の権力が世俗化されて精神性を失ったのと、新しく勃興してきた商業市民階級が経済力を持ったのとが相俟って、芸術家たちが活躍したんだ。中世風の神様中心の世界から離れて、人間そのものの中から美を見出そうという人間性回復の動き、って教科書は解説するんだけど、実際に日本人の私たちが見ると、『何だ、思いっきり宗教画じゃん』って感じるよ。C1がミケランジェロの彫刻で、C2から並べている写真が全部絵画。どう?左上から、ジョット『ユダの接吻』――これが西洋絵画のスタート地点と謂われている――そこから右へ順に、ピエロ・デラ・フランチェスカ『キリストの洗礼』、ボッティチェッリ『ヴィーナスの誕生』、レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』、ラファエロ『ベルヴェデーレの聖母』と並べてみた。これ、みんな巨匠だよ。他にも北方ルネッサンスで、フランドル地方のファン・アイク兄弟とか、ドイツのデューラーとか、キリがない。ああ、ここにある画家と作品、全て丸暗記してね。美術のテストで問題出しやすいのって、この辺しか無いから。」・・・西洋独特の宗教観をテキストで学ぼうとしても、私の能力には限界がある。けれど、こうして数々の絵画を眺めているうちに、確かに学びの助けになっていることを自覚する。「文盲者のための聖書」って凄い、美術の力って凄い、と率直に圧倒された。加えて、美術の勉強たるや、教科書に依存すべきものではない。イヤホンガイドを聴きながら美術館巡りをするほうが余程実り多き人生になる。是、本当に先生の仰せの通りだと知った。「今この限られた時間の輝きと恵みに感謝しながら、もう二度と抱けないかもしれない想いを表現するのが芸術なんだよ。」――良い師に出会った。
 
 「ああ、それとね。縄文時代や弥生時代まで持ち出して、まるで日本美術が西洋に劣っているかのような語り方をしてしまったけれど、浮世絵!浮世絵を忘れないでね。あの木版画が西洋美術史にも影響を与えているから。そうそう、浅草寺の仲見世で扇子とか提灯とかタペストリーとか色んな土産物に印刷されている、喜多川歌麿とか東洲斎写楽とか葛飾北斎とか、ああいうの。今も外国人観光客に人気の筆遣いなんだよね。
 浮世絵は大衆美術なもんだから、摺り損じた紙なんかは、勿体付けずに輸出向けの工芸品の詰め物に使ってたんだよ。それで、偶然この版画に目を止めたヨーロッパの画家たちに大変な衝撃が走ったんだ。ヨーロッパじゃ、写真の普及で画家が役割を失って、新しい絵画表現に飢えていたからだとも謂われているね。光と影の狭間に世界が存在するというのが彼らの絵であって、陰影は生命ある物の象徴だった。ところが、浮世絵には陰影が無い。ヨーロッパの絵画が『面』の表現なのに対して、日本は『線』の表現。線の起伏でモノを立体的に見せる技法にヨーロッパ人は驚愕したってわけね。この非現実的ではあるけれど自由で明るい世界の存在が、ヨーロッパの絵画に化学反応を起こして、印象派が成立したんだよ。ゴーギャンとかゴッホとかによく現れている。こうした日本趣味は1860年から1910年までの半世紀の間、『ジャポニズム』と呼ばれる芸術運動にまで発展したんだけど、同時期に日本にも油絵を主とする洋画が紹介されると、大和絵とは異なる遠近法や透視図法が生まれるんだ。カッコつけて云うと、芸術に国境は無い!」――先生の決め台詞と共にチャイムが鳴り、自画像の背景、顔の角度や服装等々を構想し、簡素な下絵まで仕上げておくことが来週までの宿題とされた。構想は各人の自由だが、表情だけはクラス全員共通でアルカイック・スマイルとすることが必須であった。
 「芸術に国境は無い!」――こういった類の事柄を教わると、私にとって「完全なる鎖国」のデメリットが木版画の如く浮き彫りとなり、鎖国にも“適度な”例外を設けたのは賢い選択だったと思えてくる。尤も「適度な鎖国とはどの程度のレベルを指すのだろうか」就中「江戸期の日本は鎖国体制だったにも拘らず、何故オランダのみ貿易が可能だったのか」という質問に対する回答は、研究者の思惑によって見方が変わるけれど、概ね「商品の種類とか、入出港の規制とか、船員の管理とか、徹底して制約された取引条件をオランダが守ってくれたこと」と「キリスト教の布教や政治活動を絶対に禁止するという約束をオランダが守ってくれたこと」の2つが大きいとのことだ。天下統一を遂げた幕府にしてみれば、国内の安定と秩序の維持を優先したかっただろうし、その点オランダは交易をビジネスと割り切る姿勢を示し、島原の乱では原城攻撃に加担することで信頼を得た、といった分析である。事実、『沈黙』に描写される三人の若い司祭はポルトガル人であった。キリスト教禁止令に伴い、ポルトガル人を見張るために築かれたのが出島だった筈なのに、なおも布教に積極的だったポルトガル人は渡航禁止となり、代わりにオランダ商館がやってくるまでの期間、出島は無人島となってしまった。
 こうした経緯を踏まえると、国と国との取引とは、平和的な合意によって契約が締結され、各条項への違反行為がなく継続されることが大前提となるし、契約が不成立だった時に武力を用いないことも大前提となるのは明らかだ。が、鎖国にとって最大の障害はこの「大前提」に限界があるということに尽きる。事実、黒船の大砲で脅しながら不利益な開国を迫られてしまうと、幕府は抵抗できなくなってしまった。
 『沈黙』の読書感想文には是非こうした論述も添えてほしかったものだが、高校1年時の私にそこまでのスパイスを求めるのも酷というものか。とは申せ、小中の義務教育9年間ずっと平和教育を受けてきたのである。もうさすがに「原爆は悲惨」「平和は大切」「喧嘩はダメ」といった理想のステージから脱却し、現実に国家間の対立と戦争が止まない要因を捉えようと努めてもおかしくない年頃ではないか。それとも戦争を回避する手段として鎖国は有効では無いという持論に基づき「私は鎖国政策の愚かさを感じました。」と書いたのだろうか。16歳の思考回路が気になる。
 「法律の効力は暴力に及ぶのか」「暴力に屈しないための武力を備えるのは暴力の範疇ではないのか」「暴力を排除しようという国際条約への批准を強制するのは非暴力的な解決策と断言できるか」――私がこのようなテーマに取り組んだのは大学の法学部へ進んだ後のことだったが、結論など出る筈も無い。蓋し、暴力も戦争も廃滅が不可能である以上、まだ鎖国政策を採用するほうがマシという見識には一理あると受け止めたのは22歳の頃かもしれない。無論、亡命が許されない以上、鎖国された国内の為政が自国民に対して人道的であること等もまた大前提となるのは言うまでもないが。
 
 鎖国が厳しければ、スポーツの国際大会の開催は極めて困難になるだろう。私が高校2年生だった年には「ドーハの悲劇」があり、その後日本のサッカー選手が欧州の五大リーグで躍動するなんて空想の域をも超えていた。3年前には球団歌の歌詞に「つむじ風」の入るチームにとんでもない投手が入団し、トルネードで球界に旋風を巻き起こした。我が贔屓球団は「BIG EGG」と囃された当時の本拠地において、彼からルーキーでのプロ初完封を喫した。8球団の競合だったとはいえドラフトの抽選で彼を外したことが悔やまれる奪三振ショーを幾度も見せられたが、それでも彼が日本人メジャーリーガーの先駆者になるなんて空想の域をも超えていた。その後「つむじ風」が青波に吸収される形で球団解散となることも、我が贔屓球団が北海道へ移転後、彼の長男が通訳として仲間入りをしてくれることも、みんな当時は空想すら出来なかった。
 然は然り乍らである。欧米での日本人選手の快進撃も興奮したのは最初だけで、見慣れてくれば「こんなものか」と落ち着いてしまった。おそらく私という人間は、海外スポーツにそこまで高い関心を抱けない性格なのである。半永久的にワクワクするのは、やはり自分に最も身近で、時差も無く、毎日テレビ観戦が可能な国内のスポーツとなってしまう。だとしたら、あくまで自分本位であることを承知の上だが、「鎖国も悪くないな」というところに帰結する。最初に東京五輪を誘致した昔から議論されてきたことだが、国民が挙って血税を投じてまでオリンピックとパラリンピックに興味津津かといえば、そうでもなかろう。寧ろ鎖国した上で、国民体育大会と全国障害者スポーツ大会を巧みに演出したら、自ずと今より盛り上がる祭典となることは間違いないし、開催地となる地方の創生も促せるだろう。日本のプロ野球に助っ人外国人が入団しなくなるデメリットはあるものの、期待を裏切られるリスクとて同じ事である。私が高校2年生だった年にはハワイ出身の力士が外国人初の横綱へと昇進したが、心無い批判に曝されることもあった。諸外国から円満に鎖国さえ認められれば、ハナから外国人が入門することは無いのだから、差別やヒール扱いも無くなる。また、ハナからオリパラへの出場資格も無く、オリパラが放映されることも無い環境下では、国際大会を目指そうという発想すら湧かなくなるのが必定だ。我が国のスポーツ選手の目標は「国家の威信を懸けた戦争」から「故郷の名誉を懸けた内戦」へと緩和され、メダルを獲れなかったことを国民に謝罪し泣き崩れるような「常軌を逸した重圧」からも解放される。スポーツの健全化とはこういう事ではないのか。
 私は国粋主義者でも何でも無いけれど、地球全体の利益には協力する立場を保った上での鎖国であれば、これは相応に値打ちのある政策だという考え方を未だ捨て切れずにいる。友好国同士の紛争の仲裁に気を揉むことも無ければ、本来自国には無関係の騒動に蹂躙される心配も無い。異邦人との付き合いは、必要とする範囲に抑えつつ、背伸びせずに独自路線を歩むことによって、心にゆとりと潤いのある知足安分の生活が得られるかもしれない。否、自給自足であるが故に「自分達の力で何とかしよう」という当事者意識が熟し、国民は教育、勤労、納税の三大義務を果たすことに精励するのみならず、もしかしたら積年の課題だった出生率が自然的に上昇するかもしれない。政治家には「国際競争力が低下する懸念を払拭しながら、効果的に鎖国をしなければならない」という使命感と緊張感が高まるし、少なくとも選挙の投票率低迷と政治への無関心は克服できそうだ。
 ・・・このグローバルな社会のうねりの最中、冷静に突き詰めれば、鎖国なんて出来やしない。出来やしないけれど、鎖国の提唱それ自体は決して危険な思想の産物では無い。来世の事などどうでもいいけれど、遠い未来に歴史が繰り返された場合、21世紀初頭における私のくだらない予言的考察に注目する研究者が居れば、それはそれで非常に有難い。だって、現世では何でも有難がる曖昧な信仰スタイルが、私の確立した自己なのだから。
 
 美術の先生は斯くも仰せだった。「大切につくったものを人は忘れないよ。宗教も彫刻も絵画も、そして夢や生き様を含めて『自分』というものをね。だから、今回の自画像には大切な『自分』を描いてほしいなあ。そうなると、描く前に、まず自分がどういう人なのかを知っておくべきだろうね。」・・・つづく

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