昭和→令和へ価値観をアップデート、というよりも・・#17
「不適切にもほどがある」が描いた昭和と令和
テレビを見ない私ですが、最近「不適切にもほどがある」というドラマが話題になっていることを知りました。
時代設定は1986年(昭和61年)と2024年(令和6年)。
2つの時代のタイムスリップを軸に繰り広げられる物語で昭和と令和の価値観が比較されながらコミカルに描かれているというもの。(見てないけどf^_^;)
ここでリアルの令和の今、時同じくして注目されている、このドラマのタイトル「不適切にもほどがある」といわれるに相応しい「頭ポンポン」で話題のセクハラ町長についての考察。
価値観をアップデートすることが必要なのか?
今回のネタは元フェリス女学院大学の春木先生です。
男性キャスターがこういったおじ様方に対し、「価値観をアップデートすることが必要」とかっこよくコメントをしていたのに対し、春木先生がチクリ。
「価値観をアップデートとかの問題ではない」
相手を「尊重」し、自分が嫌だと思う事は、人に対してもしない。
、、、令和だとか昭和だとか関係なく、それだけのことなのだと。
価値観アップデートうんぬんでなく、、。
人間の基本は自由でわがまま
大愚和尚が「人間の基本」を
「自由でわがまま」と表現されていたことを思い出した。
子供の場合、人間の基本の「自由でわがまま」がオブラートに包まれることなく、否応なく外に現れているのでわかりやすい。
でも親から教育されたりしながら、「自由でわがまま」どおしの人間は他者と衝突してしまうので、折り合いをつけながら生きていくことを学んでいく。
しかし、なまじ「権力」や「金」を手に入れてしまったため「自由でわがまま」のままの大人がいる。それがセクハラやパワハラなどという形で情報化社会の中であぶり出されてきた。
地位や年齢の上下は関係なく、他者をおもんばかることができない自由でわがままな人は、いつの時代も生存戦略として不利に働く、それが時代によって加速されただけのような気がします。
人間の本質は何も変わっていない
最近、テレビが昔のように大笑いできる番組がなくなり面白くなくなったと言う人がいます。
確かに性描写やいじめに近いイジリなど「自由でわがままな人間」を奔放に表現するのは難しくなっている時代かもしれません。しかし、表現の方法はいろいろな方法があるはずです。
今様の価値観にキャッチアップするというより人間の普遍性について学ぶ方がよほど有益なのではないか、と春木先生のVoicyを聞いて思いました。
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