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教師は「教え方」以上に「在り方」を問われる?

我々の欲望と我々の能力の不均衡にこそ、我々の不幸は存する。

こう言ったのはルソーである(「エミール」)。至極名言だなと思う。僕らは子どもたちにとって価値ある教師でありたいと欲望する。でもその能力に限界を感じる。ときにそれをとことん自覚せねばならないこともある。そんなとき、僕らは不幸せを感じ、自分自身に絶望的にならざるを得ない。そんなことを繰り返しながら、教師もまた、少しずつ強くなっていく。

多くの教師は子どもたちにとって価値ある教師になるために、「ワザ」を身につけようとする。「ウデ」を磨こうとする。わかりやすい教え方、伝わりやすい言葉、意義ある学習活動、効果のある教育技術、そういうものに飢える。でも、子どもたちが見ているものは「この先生は授業がうまいなあ」とか「この先生の話はおもしろいなあ」とか「この先生の話には説得力があるなあ」とかではない。「この先生は人としてどう自分たちに接するのか」である。確かに僕らは子どもたちの前に「先生」として立っているが、子どもや保護者は僕らを「人」として評価している。

この人は言っていることとやっていることが一致しているか。この人は自分の過ちを認めるか。この人は自分たちに情を向けてくれるか。この人は自分たちのことを考えて行動してくれるか。この人には時にラブリーな淫らさがあるか。この人の情熱や熱意は自己満足に陥ってはいないか。僕らにはそんな多種多様の評価の眼差しが向けられている。言うこととやることが一致せず、自らの過ちを認めず、子どもたちに情を向けることも子どもたちのことを考えずに正しさだけを規準に教壇に立ったり、人間らしい茶目っ気がまったくなかったり、情熱や熱意をもつ自分に酔っている印象を与えたりする人間が、いくら高度な技術を駆使してうまい授業をしても、いくら具体例を駆使したうまい語りで指導したとしても、ときにその授業や指導は嫌味にさえなる。同じことをやっても評価される教師とされない教師がいるのはそのせいだ。

恰好良いことばかり言う人間は最初は感心されても遂には避けられる。逆にどう考えても格好悪いことをしている人間がそのひたむきさを買われ、最後には高い評価を得ることもある。人間の評価は何を言ったか、何をしたかだけで測られるわけではない。言ったこととやったことを通して見えてくる、その人の「意図」が評価される。もう少し正確に言うなら、人間は言うこともやることもそうそう意図をもってやっているわけではないから、「この人はこういう意図でやっているのではないか」という他者に抱かれてしまった印象で評価が決まってしまう。そういうものだ。

例えば、自信満々に生きている人に対して人はなかなか逆らえない。その人の語ることが正しいからとかその人のやることに意義があるからではなく、その人が自信をもってやっているということから生じるオーラが、人に逆らわせないのである。逆に、いかにも自信なさそうに見える人が語ったことに人は反論しやすい。その人が弱々しく語るが故に、聞いている側はちょっとした違和感も表出しやすくなる。聞いている側からすれば、自分の自信のない意見もこの人の意見と同等の価値をもつと思うことができる。だから反論しやすい。

例えば、とことん反省し、自分の責任を痛感しているように見える人を、人はそれ以上責めることをしない。許そうとする。命にかかわる問題であるか、一生涯の後遺症が残る問題であるか、この二つでない限り、誠心誠意謝罪している人間を人はそれ以上責めない。自分だって失敗はする。この人だって失敗しようと思って失敗したわけではない。これだけ落ち込み、これだけ反省しているのだからこれで充分だ。更に後ろから石を投げるようなことをすべきでない。そんなことをしては自分自身が下劣な人間になってしまう。多くの人はそう考える。ところが口では反省していると言いながら、態度や表情に一切反省の色が出ていないとなればそうはいかない。みんなが一斉に、徹底的に叩き続ける。

自信があるかないか、謝罪に心がこもっているかいないか、どちらも言っていることややっていることが問題なのではない。「この人はいま、こういう意図なのだ」という印象を皆が感じ取れるか否か、それだけが判断基準なのだ。

教師の「教え方」と「在り方」の問題も同様である。その教師が言っていることややっていること、即ち「教え方」の善し悪しは、その教師の「在り方」、即ち「その教師はこういう意図でやっている」という印象とセットで評価の対象となる。世の中に良い教え方、良い指導の仕方が独立してあるのではない。あくまでもその教師個人の「在り方」が前提としてあり、それに矛盾しない「教え方」や「指導の仕方」がなされたとき、その教師は高い評価を得ることができるのだ。

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