燃やされるべきは演劇業界ではなく、「コミュニケーション教育業界」だろ(追記しました)

追記:本noteでは論点を示し「燃やされるべき」としただけでコミュニケーション教育批判まで行えなかったため、上記のnoteにて批判を試みました。やや長文ですが、よろしければ御覧ください。

平田オリザ氏が「舌禍」で燃えている。
この件に関して演劇業界全体が巻き込み炎上を食らうのは流石に不当だろう。一般論として、業界トップが本業以外で何かやらかしても、よほど界隈ぐるみでもない限りは関係ないはずだ。内部批判せよというのもやや過大に思える。

だが、個人を超えた批判を免れ得ない業界がある。いわゆる「コミュニケーション教育」業界だ。
平田氏、及び演劇業界の一部は「海外では演劇教育がコミュニケーション能力養成の柱になっている」として、積極的に演劇教育、及びコミュニケーション能力教育全般の教育課程への導入を推進し、教授を行ってきた。
その教育の核となる理念はざっくり言えば「異なるコンテクストを知り、他者と相互理解する能力を高める」ことである。

これだけ聞くとまあ普通に正しそうだ。

しかし、今回の件で驚くべきは、平田氏が自身の提唱してきたことが全く行えていないという事実だ。
というか、そうすべきだという発想すらなさそうな放言の数々である。
よく知りもしない他業種を自らの業界の窮状を訴える引き合いに出して、批判されると悪意のある切り取りと宣い同じ主張を繰り返す、非難が広がるに応じてさらに雑な比喩で他の分野に戦線を拡大する始末。
一体これはどういうことなのか?

注意すべきは、そもそも、「コミュニケーション能力」には明確な非対称性があるという点だ。
コンテクストを理解できているか?コミュニケーション・プロトコルに沿った行動なのか?
そもそも何を理解すべきで、その判断基準はどこにあるのか?
交流の行われる場において、それを設定し、要求し、判定できる側にいるかどうかで、必要な努力量は全く違う。
無論、対等な関係ならばこの限りではない。
だがそうでないとき、そして往々にしてそうではないのだが、一方が他方に「理解」することを半ば要求できる。
重要なのは、この非対称性はコミュニケーションが行われる前に予め決まっているということだ。
富めるものがますます富む、どころの話ではない。
「何が富かは富を持っている者が決定できる」という構造になっている。
これが通常の知識や技術と明確に異なる点でもある。

コミュニケーションは単なる技術であり、学べば出来るようになる、だからコミュニケーション能力がない人間が損をするのは仕方ない、損をしないように教育を受けてコミュニケーション能力を身に着け、新時代に適応しよう!
これをお題目として、コミュニケーション能力開発というテーマはとくに新卒採用や初期教育に取り入れられてきた。だがこれは危険性を孕んでいる。
自分を売り込み、コミュニティに受け入れられることを目標にしている人間にはいくらでも「コミュニケーション能力」を要求できる。
同様の構造は「プレゼンテーション能力」などでも用いられた。
プレゼンを受ける側に座っていれば、内容を一切理解していなくても、いやむしろ理解していないことを根拠にして、「プレゼン能力の不足」で相手の評価を任意に下げられる。
こういった問題点を、「コミュニケーション教育」業界は真剣に考慮してきたとはとても思えない。
これは、推進者たちが結局の所「教育を行う側」であり、その能力を試される立場には立たなくてよい存在だからだ、というのは穿ち過ぎだろうか?

平田氏は、今回コミュニケーション能力の明らかな欠如を示した。
他者を理解していると思い込み、自身の事情と内心の説明に終止し、他者からの批判を無理解として退けた。
理解する能力がなかったのではなく、理解しようとすらしなかった。
これは単なる舌禍で片付けていい問題だろうか?
平田氏がこれまで努力して他者を理解する側に立たされたことがないという証左ではないか?
自分は理解する側ではなく、理解を要求できる側にいるという意識の発露ではないのか?
そういった人間が音頭を取って推進してきた「コミュニケーション教育」とは一体何だったのだろうか?

無論、コミュニケーションを技術論としてとらえること自体は有用であろう。しかしそれを「コミュニケーション能力」として教育し、試験し、判定する。それは結局どういうことを、どういった非対称性をもとにやっていたのか、あまりに無批判ではなかったか。

平田氏は来年度開学する国際観光芸術専門職大学の学長に内定している。
そこでは、演劇を中心としたコミュニケーション教育を柱に、観光業界のスペシャリストを養成するという触れ込みだ。
だがいまや、演劇によるコミュニケーション教育という話は怪しいだろう。

今後、自分ができもしないことを「教育」してきた人間が旗振り役であったという事実に、本人及び業界の人間からの真剣な批判がない場合、
日本の教育行政において「コミュニケーション教育」「演劇教育」の扱いをどうすべきなのか、再考すべきではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?