終わらせたい

そういえば、ずっと"きちんと終われてない"なと思った。

2019年のエリザベートは、見納めの千秋楽に貴賓の移動とやらで高速道路が閉鎖され、なんと東京に出るまでに三時間以上かかり冒頭20分が見られずに消化不良。

2020年のフランケンシュタインは自分がインフルエンザにかかってしまい、どうして観たくて直前で追加したチケットも友人に譲ることに。

2020年の天保十二年のシェイクスピア、見納め予定の2日ほど前に突然の中止。

2020年のエリザベート、そもそも始まりさえしなかった。

チケットは事前に取ることが多いから、仕方なくリピートすることもあるが、基本何回も観るのはその舞台が好きだからだ。

俳優さんたちは初日も千秋楽も同じ感覚で演じているというような話も聞くが、そういう気持ちをもってしても、舞台という生き物は回数を重ねるごとに成長し膨らむ。
アメーバみたいに、観た後の感想がいくつもに分裂し増殖していくような感覚。
リピートすることで観客の理解度も増すからだろうか。

コロナ渦において、都内住みではない私は観劇回数はかなり減った。
やはり、なかなか行きにくい。
パートを始めて時間が取れないことも要因だけど、世間的に"不要不急"に対して行動をおこす罪悪感のようなものは、私の中に確実に在る。
あぁ、私も所詮日本人だなぁと思う。

【人流】というのは辞書に載ってないらしい。
某都知事の造語のようだ。うまいこと言うなとは思うが、様々な背景からどうも納得はいかない。反発を招きたくなる言葉だ。
県を跨ぐなと言われると、江戸時代の藩かよ、殿様に許可もらわないと出られないのか?関所でも立てんのかと思ってしまう。

家から出ない、は確かに一番の対策なんだろう。それはわかる。
でも生きていくのに一時も出歩かないってのは無理があるので、やるなら徹底した上で短期決戦だろうと思うが、完全に時期を逃したと個人的に思っている。
人の流れを止めるにはもう無理があるでしょう。ここまでの時間に付いた傷が大きすぎる。

今回の名古屋行きはかなり悩んだ。
"行かないことのほうが正解"なのはわかるからだ。どんなに気を付けていてもリスクを0にするのは無理だ。

文化芸術は生きるために必要だとか、頑張って舞台を続ける人のために席を埋めたいとか、そういうきれいごとは言うつもりはない。

最終的に行くほうを選んだのは、自分の欲求を回収するためだ。

きちんと終わらせたい、という気持ちが強かった。
どうにも中途半端な状態で、突然の終了通知に、自分の気持ちがついていけなかった。

もう、完全に自分自身の身勝手な理由からである。

結果、今めちゃくちゃスッキリしている。

ミュージカルゴヤは私の中できちんと終わった。
始まったからには、きちんと終わらせる。これは観客側にも必要な行動で、舞台は終わるからこそ尊いんだなと改めて感じた。

けじめをつけることで、観客も次の舞台に進めるのだなと改めて気づいた。

だからなんだって言われたら、上手く説明できないけど。

#文化芸術は生きるために必要だ
このタグが実は苦手だ。
もちろん、創り手側の方々がこれを訴えることは大いに意義がある。
それが生活手段なんだから。

それを楽しむ側が訴えることに、気持ちはわかるし私自身もそう思うけど、でも自分が言って良いことなのかっていう葛藤が消せない。

自分の欲に振り回されている自分にも気づいているから。

でも、欲というものがあるからこそ、人は明日に向かって生きていけるのかなとも思うし。

少なくとも、私個人は今日からまた切り替えてあらたに頑張ろうって気持ちにはなってる。そういう意味では、文化芸術は生きるために必要だを立証出来てるようにも思う。

文化芸術という類いのものが好きだからこそ、真剣にその在り方と向き合いたいなぁという思いもある。

暗中模索というのがまさにピッタリな言葉だな。

だから、今の気持ちをここに書き記しておく。

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