【ネタバレあり】舞台サンソン、ジャン-ルイ・ルシャールについて。

舞台『 サンソン ールイ16世の首を刎ねた男ー 』を観劇。
牧島輝くんが演じるジャン-ルイ・ルシャールについて。
ジャンの素敵だなと思ったところ、原作や回顧録の一部を読んでみて面白かったところや気になったところなど、忘れないうちに吐き出しておきたいなと思ってnoteに書くことにしました。

普段は勇気がなくて人目につかないようにひっそりつぶやき気持ちを整理しているタイプのオタクですが…
ジャンが期待以上に魅力的だったこと、作品自体が素晴らしかったことと、その素晴らしい作品の東京公演がたったの5回で中止を余儀なくされてなってしまったこと、そんな現実を前にしたら少し誰かに聞いてほしいような気持ちに駆られ、作品名もお名前も伏せずに書くことにしました。

作品そのものの感想やレポではなく、ジャン-ルイ・ルシャールについての勝手な解釈みたいなものです。
自分の中で感じたものを整理したくて書き始めたので、主観的で内容も偏っていてまとまりがなく読みにくいです。
歴史についてもかなり勉強不足です。
今年に入ってからの牧島くんファン初心者で、牧島くんについてもあまり詳しくありません。
いろいろご容赦ください。
あと、めちゃくちゃネタバレしています。

まず公演のことを知って原作『死刑執行人サンソンー国王ルイ十六世の首を刎ねた男』安達正勝著 https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0221-d/ を読みました(元々の舞台化のきっかけである『イノサン』『イノサンRouge』は未読です)

この大きな舞台作品で推しはどんな役を演じるんだろ……うわ〜めちゃくちゃ良い役!となり、その時点でジャンにかなり肩入れしました。
ついでに、ヴェルサイユ死刑囚解放事件が起きたの8月3日(牧島くんの誕生日)じゃん!と思ったのは言うまでもありません。
(ご本人も公演プログラムの中でそのことに触れていますね)

観劇後にこちらも読みました。
https://booth.pm/ja/items/2902867
西川秀和氏による『サンソン家回顧録上巻』のジャン-ルイ・ルシャールに関する記述の翻訳です。
ジャンについてもっと知りたくて、たどり着いたのがこちらでした。

これらを読んで、ジャンの父親・マチュラン親方には古臭い頑固親父を通り越して毒親とか老害とかそういう印象を抱いてしまったんですが、元々は息子のことを溺愛している父親であり、ジャン自身も父親から注がれた愛情を(それはかなり歪んだものではあったけれど)しっかり受け取り応えようと成長した青年であることがわかりました。

そう、ジャンってめちゃくちゃ好青年。
(ついでに美男であることがやたらと強調されているので原作も回顧録も面白いです)

舞台のジャンも牧島くんが表現することで溌剌としていて意志が強く心が熱いこともビシバシ伝わってくる、思想を持って自分を貫く誇り高き好青年(そこがとても好きです)でしたが、それに比べると元のジャンはもっと優男というか、生まれた環境に半ば諦めを抱き父親の期待に応えようという思いが強い優しすぎる青年という印象を持っていました。

父親の愛と見栄で身分不相応な名門校に進学したことで結果、革命思想を持つようになった息子と新思想を毛嫌いする父親はその関係がどんどん悪化していく。
舞台ではマチュラン親方は自身の死に至るシーンにしか登場しておらずあの時点ではもう親子関係は破綻しかけているのだと思いますが、事故とはいえ自分との揉み合いの末に父親が命を落としたこと、そんな父親の死にショックを受け遺体に駆け寄り抱きしめる様子、罪を受け入れる姿には、舞台のジャンも父親を完全に憎み忌み嫌っているだけではなかっただろうなと勝手に思ってしまいました。
親子で言い争いをしている最中の「でもね、とうさん」という語り方にもジャンの育ちが出ている感じがしてめちゃくちゃ好きですね…あと抵抗はするけど一方的に殴られるだけで絶対に父親と戦おうとはしなかったジャン…

原作や回顧録からは最後まで父との〝仲直り〟を諦めなかった優しすぎる性格から己の運命に身を任せ処刑を受け入れたようなジャンの印象に対し、舞台のジャンは己の誇りのために処刑に臨んだという印象です。
処刑シーンでは、貴族のような醜態を晒したくない、罪人であることに抗わない誇り高き市民でありたい、というジャンの男前な生き様がとても胸に刺さります。
原作のように救出されるのではなく、意思を表明することでサンソンに縄を切らせるに至り、なんならあの場で民衆に殺されかねなかったサンソンを救う立場に逆転したジャン、めちゃくちゃかっこよかったな…
恋人のエレーヌ、友人のトビアス、生還したジャンがそれぞれと熱い抱擁を交わす姿にも胸打たれました。

興奮が収まらない民衆に対し、ジャン、エレーヌ、トビアスの三人がサンソンを殺してはいけない、彼は公平な処刑人であり憎むべきは彼ではなくこの国の古臭い法律と常識だと説得していくのもとても好きなシーンなのですが、同時にころっと流されていく民衆にも恐ろしさを感じます(処刑台を壊そうと民衆を煽るサン-ジュストにも…)
(戯曲本を読みながら舞台のことを思い出すとジャンも流されやすさを持ったよくいる青年に過ぎなかったのだと思うんだけど、細かく変更されている部分に気付くと作り上げていく過程であのジャンの人格になっていったんだなあと思って胸熱です)

この作品の全体を通して、特別でも何でもない民衆が渦になったときのエネルギーの大きさが何よりも恐ろしいということをあらゆる場面で感じました。
対象や理由は場面によって全く違うのだけど、歯止めが効かなくなりどこまでも残虐になれてしまう民衆の様子はとても恐ろしいし、それは時代が大きく流れても変わらないものであるということも、この作品が投げかけているメッセージのひとつかもしれないと思いました。
役者さん達、セット、音楽、光、演出のすべてが一体となって、実際に舞台上にいる人の数よりも遥かに多く感じる民衆の迫力が本当に凄かったので、これは実際に観劇しないと感じられないものだからそういった面でも中止が本当に残念でならないです。


話が逸れますが。
回顧録ではジャンとエレーヌとはまだ恋人関係ではなく、かなり年下だったエレーヌの家庭教師のような存在でもあったジャン(事件までの間にお互い自分の気持ちに気付いた、言わば両片想いの関係だったようです)
知識をひけらかしたい思いもちょっとあったりするジャン、年相応の若者らしくて可愛らしいところがあります。
舞台のエレーヌはこの時代をひっそり生きた大人しい少女ではなく、愛するジャンを常に心配していてその心配も隠すことなくジャンへぶつけて、それでもジャンを誰より理解し彼を信じてその行動を常に見守り、気丈に帰りを待つ女性であったのがとても素敵でした。
もしかしたら元々は大人しい少女だったのかもしれないけど、ジャンのそばにいるうちに自然と強くなっていたのかもしれないなと想像するとそれもまた愛おしく微笑ましく。
駆け落ちのシーンで君を幸せにしてみせるとジャンが言うけれど、どちらかというとジャンを幸せにできるのはエレーヌしかいない!って感じでした。
(牧島くんと清水さんの身長差が多分20cmくらいあって、ジャンがエレーヌを抱きしめるとエレーヌが腕の中にすっぽり収まるのも可愛かったな…)


結構、原作とは違う描かれ方をしていて、そんなジャンがとても良かったのです。
二部は特に、舞台ならではの展開と役割を持ったジャンを観ることができて嬉しかった。
車裂きの刑廃止のきっかけでありサンソンの人生においてもターニングポイントになったヴェルサイユ死刑囚解放事件の主人公ではあったけど、その後どう生きたかはわからなかったジャンが、家業である蹄鉄の技術を活かしチームサンソンの一員となりギロチン製作の手伝いをすることになるとは。

父親から勘当されていた時期、ジャンは学歴を生かして別の仕事を得ていたし(書記や事務官と縁があり、布地の御用商人に雇われていたと回顧録にはあります)蹄鉄職人の仕事は好きではなかったはずなので、結果的に父親から解放され自由になり進みたい道はそれなりに選べたはず。
家業を継ぐことを強要した父に「決めつけないで、僕の人生だ」と言った彼がなぜ蹄鉄職人の道へ戻ってきたのか。

ジャンはサンソンに「死刑を免れた時から、僕に何が出来るのかを考えていました」と言うので、それ以外の正解は無いのですが。

あれだけの壮絶な経験をしたからこそ生かされた自分に何が出来るのか考えた結果、死刑執行のする側される側双方の苦しみを減らしたいと思い至るのは理解できるし立派だと思うけれど。
ヴェルサイユ死刑囚解放事件が1788年、ジャンとトビアスがギロチン製作に加わるのが1791年、トビアスから誘われて…という経緯からすると、この三年間にジャンは家業を継いでいたことになります。
そこでどうしても気になってしまうのはジャンが家業を継ぐ道を選んだ心境。
三年前の時点ですでにジャンは職人としての腕は良かったようなので、手に職あるなら毒親が消えたら継ぐのもまあ悪くないって私だったら思うかな…いやいやせっかく自由になったのに、ていうか死刑にされかけた時のトラウマ思い出しちゃうし…とか色々想像してしまった。
父親の死を悲しんでいるのは確かだと思うし、後悔もあったと思うし、一人息子としての責務を果たしたかったのかもしれない。
別にジャンと父親との関係にこだわりたいわけではないのですが、やはりジャンの中で父親に対する気持ちは大きいものだと思います。

ジャン、とにかく心根が優しい青年だというのが作品の最初から最後まで描かれているんですよね。
トビアスはどこか冷静というか割り切って考えられるタイプなのに対して、ジャンは世の中の流れに対して動揺もするし怯えてもいる、そこに観ているこちら側が感情移入がしやすいというのもあるかもしれません。
「この興奮状態、なんだか怖いんです。人々がどこへ向かおうとしているのか…」というのも、自分が処刑されかけたときに渦の真ん中から周りを見ていたジャンだからこそ誰よりも敏感に感じ取っていたのかもしれない。

「こんなことで本当に俺達の望んだ世の中が来るのかな」

というジャンのセリフもとても心に残っています。
(公演の一部中止が決定した後にトビアス役の橋本さんがこのセリフを引用したツイートをなさっていてそれも心に刺さりました)

サンソンの国王救出計画に悩みながらも加担する決意をしたジャンも、トビアスとの対比が印象的でした。
トビアスが冷たいと言いたいわけじゃなくて(むしろトビアスはとても優しくて良いヤツ)どちらが正解というものでもないし、流れを冷静に見て判断ができるトビアスも、自分の感情に素直なジャンも、どちらも好きなのです。

私だけじゃなく牧島くんのファンの方はみんな板の上にジャンがいる時間はついついジャンを目で追ってしまうんじゃないかと思うのですが、クライマックスの処刑ラッシュのシーン(言い方がよろしくないですが…)ルイ16世の処刑に続き、マリー-アントワネット、デュ・バリー夫人、そしてロベスピエール…次々と斬首されていく中で、ジャンが怯え狼狽えている様子が見て取れます。
特にサン-ジュストの首が落とされる瞬間には目を背けてしまう、かつての友人に対するジャンの気持ちを考えずにはいられないシーン。こんなところまで来てしまったジャンが、ごくごく〝ふつう〟の青年だったことを思い出さずにはいられない、ジャンのその仕草、その表情。
クライマックスで客席の大多数が舞台の中心を見つめていたときに、ジャンを目で追っていたことで受け取れたメッセージもここにある…と思っています。

そこから13年もの時が経ち(というのを戯曲本で改めて見て驚き)
マドレーヌ寺院の建設現場でジャンが働き始めたのはその一年前からだということがエレーヌのセリフからわかるので、革命から十年以上ジャンとエレーヌがどう生きてきたのかもやっぱり気になってしまいます。
たくましくパンを売るエレーヌの姿を見ると、エレーヌがいてくれたからきっとジャンは大丈夫だったんだろうなってことだけはわかるので安心できたし「はい、お昼!」とパンを渡してくれるエレーヌへ向けたジャンの「ありがとう」の声色が、二人のその十年以上の時を物語っているのも感じるので、ここは束の間のほっとできる大好きなシーンでした。トビアスの誘いに、ジャンの気持ちを代弁してくれるエレーヌも大好き。

「俺達が目指してた世界って、こんなものだったのかな」

ジャンのこのセリフもこんな状況だから余計に刺さりました。
二週間後、この言葉が心の中でもっと大きくなっていそうで。
どうかこの作品が、大阪、福岡、神奈川での公演を無事に出来ることを願って、こんな世の中で自分がやれることをやるしかないのですが、それで本当に状況が良くなるのか信じることができなくて。
今回の中止で、作品を届ける側の方々の悔しさと、観劇が叶わなかった方々の悲しみ、奪われたものの大きさが計り知れなくて。
今だからこそ多くの人に知ってほしい作品なのに、残念の一言では済ませられない。
#文化芸術は生きるために必要だ  】
民衆のエネルギーの凄さ、それをこの作品で思い知ったので動くときには動かなくてはと思っています。

今は心から、明日になってしまった東京千秋楽の成功とこれからの三都市の公演が予定通り行われることを願って。
(当日引換券戦争に敗れた私はサントラ流しながら戯曲本を読んで明日を過ごそうかなと思っています…あとツイッターで感想やレポを検索…)
あと自分は運良くと言っていいのか、観劇できたことへの感謝も忘れずに。
でもまたジャンの生きる姿を見たい気持ちが強いので、KAAT行けたらいいな。
またジャンを見ることが叶ったら、新たに気付くこと、教えてもらえること、いっぱいありそうです。
そういえばジャンの一人称が時と相手によって僕だったり俺だったりするのも自然な変化だと思えていいな…


今日吐き出しておきたいこと、以上です。
間違っているところ、変なところ、たくさんあると思います。
何か問題点があったらどうしよう…その時は消しますが、どうかご意見はやわらかめでお願い致します…

最後まで読んでくださってありがとうございました。

#舞台 #サンソン #ルイ16世の首を刎ねた男 #ジャン-ルイ・ルシャール


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