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自転車の補助輪

家にいると、毎日何度も「ガリガリ」という音が聞こえる。スーツケースを引き摺るときの音だ。
正直なところ、不快だった。窓を開けることが多い今日この頃、たとえ室内にいても車輪とアスファルトのぶつかる音が腹まで響いてくる。それも、1日に何度もだ。

長きにわたる自粛生活の反動で旅行者が増えているのだろうか。みんな勇気あるなぁ。
ため息をつきながら、そう思っていた。

しかし昨日の昼、買い物へ出かけた僕は、音の正体を知った。

ガリガリ音を立てていたのは、自転車の補助輪だった。

燦々と日差しが降り注ぐ中、僕の20メートル手前に親子連れがいた。ちびっ子たちが小さな自転車をちょこちょこと漕いでおり、それに伴い小さな補助輪が音を立てる。この光景を見た瞬間、僕は全く騒音を感じなくなった。音量そのものに一切の変化が無いのにもかかわらず。人間は不思議なものだ。


不快感が霧消し、晴れやかな気分でスーパーへと歩きながら、僕は懐古した。自転車の補助輪にはお世話になったものだ。
自転車に乗りたい。でも転んでしまう。だから補助輪をつける。皆そうだろう。僕もそうだった。休日が来るたびに近所を散策し、公園を走り回った。日が沈み、車がライトをつけ始める時間帯になってようやく、走るのが怖くなって帰宅する。夕飯の匂いを嗅ぎながら、車庫に誇らしげに自転車を片付ける。補助輪付きの青い自転車が、大好きだった。

補助輪とのお別れの時がやってきたのは、幼稚園年長の時だった。

ある土曜の朝、「そろそろ補助輪無しで走ってみる」と言って、親に外してもらった。

いきなりサポート無しで走るのは危険とのことで、まずは人力のサポートが付いた。スタート時は親や祖父母が後ろから支え、スピードが出てきたタイミングで手を離すのだ。

しかし、何度トライしても手を離された直後に転んでしまう。
結局その日は一度も自力で走れず、悔しさと痛みで咽び泣いた。凄まじく空腹だったので夕飯はかきこむように食べたが、夜は悔しさでよく眠れなかった。

次の日、まだ町が閑散としている早朝、強い気持ちを持って祖父と公園へ行った。するとあら不思議、一発目ですんなりと乗れてしまった。

あまりに突然で呆気なかった。はじめは祖父が手を離したことに気づかず、何度も「手、離していいよ〜」と後ろに向かって叫んでいた。
しかし、後ろには誰もいなかった。いるのは、遠くで静かに目を細めている祖父だけだった。
「おおー!」などと声を出してしまうと、僕が気を取られてしまう。そう考え、歓喜をグッと堪え、手を離した後も沈黙を貫いてくれたのだろう。

完全なる1人での運転に成功した。まずは驚きが来て、次に様々な感情が錯綜した。努力が実った嬉しさ、自力で乗り物を操縦する爽快感、明日もちゃんと乗り方を覚えているだろうかという一抹の不安、そして、もうお世話になることもないであろう補助輪への感謝。
当時は「やったー!」としか表現できなかった感情も、今ならば多様な言葉で表現できる。


あの日以降、僕は毎日のように自転車に乗ってきた。小学生の頃は公園や塾に。中高生の頃は学校に。大学生の頃はあらゆる移動に。
桜が満開となる新年度初日の朝も、日差しに顔が歪む真夏の昼も、涼しさ増す秋の夕方も、細雪降る冬の夜も。
北海道のニセコ・大沼を散策した時も、沖縄修学旅行で友人たちと彷徨った時も、学校帰りに友人と5人でワーキャー騒ぎながら坂道を駆け抜けた時も。
いつも、自転車と一緒だった。そして、自転車との思い出のほとんどが、あの日から始まった。

自転車との思い出の大半は、補助輪を外した後のものだ。補助輪期間は決して長くなく、それゆえ自然と思い出の数も少なくなる。しかし、だからこそ、その期間はかけがえのない貴重な時間になる。読者に該当するかはわからないが、小さな子のいる親御さんには、補助輪期間を存分に記録に残してほしいと思う。懐かしくなる。いつか必ず。

そして、いざ補助輪を外すとき。

僕が思うに、初めて補助輪なし自転車で乗れた瞬間は、誰にとっても良き思い出となるものだ。

それは自転車を通じたある種の「独り立ち」であり、このとき、幼児は少年少女へと成長する。
この瞬間は、美しく、微笑ましく、逞しい。

毎日のように轟音を響かせながら走っているあのちびっ子たちも、近い将来に必ず、補助輪なしで走り回れるようになる。
そのとき、あの子たちは何を感じるだろうか。家族は一歩大人に近づいた子をどう祝うだろうか。いずれにせよ、その日は明るく幸せに満ちた、生涯忘れえぬ日になるはずだ。

そして、補助輪と過ごした日々を胸に秘め、自転車で様々な場所へ出かけ、自転車に乗りながら友人と会話し、自転車を漕ぎながらまだ見ぬ未来に想いを馳せ、自転車と共に人生を紡いでいくのだろう。

そう思うと、なんだか目頭が熱くなった。


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