◆発見的認識の造形という佐藤信夫レトリック論の視圏は、対象を捉える新しい眼を示唆する。贅沢品たる修飾のための修辞概念を優に超え出て、現実という無限の内包の豊饒性に対応するように、無数のロジック展開(これは諸項の接続秩序の様相の一部)の在り方の一部、特に新生的局面に位置付けられる。
◆「読む」というのは広く深い言葉だ。「自然という『この書物は数学的記号で書かれている』といったのはガリレオ・ガリレイだそうだが、人間の住む世界のかなりの部分は、むしろ、辞書のない暗号で書かれているのだ」(佐藤信夫『記号人間』32頁)。いわゆる「世界書物」「世界読書」というテーゼ。
◆「意味原理」と「かたち原理」(佐藤信夫『わざとらしさのレトリック』185頁,講談社学術文庫,1994)。同書で、両者を分けて前者を優先させてきた近代の常識的言語観が批判される。形なく意味をあらわすことはできず、意味を生まない形はない。さらに敷衍し「形に思想が宿る」。
◆世の中不思議なことばかりであるが、佐藤信夫(言語哲学・レトリック論)のいくつかの著作が絶版であることもその一つ。明晰かつ自在な思考で貴重な学理をつかみ出し、文体における精妙洒脱さは比類がない。私の憧れである。美しい装幀の全集ないし著作集が編まれて、いま以上に広く普及してほしい。
◆言葉による吟味省察においては、佐藤信夫『レトリックの消息』64頁(白水社,1987)が提示する(仮構現実を含む)現実(レベルR)、視点・認識(レベルQ)、言語表現の型(レベルP)の概念区分と相互連関を意識する。Rは表現者に開かれている。他方でQとPにおける制約と自由がある。
◆佐藤信夫『レトリックの意味論』(講談社学術文庫,1996)を読み、小中高での国語教育(特に読解や作文)に何か釈然としないものを感じていた理由が、いまは分かる気がする。言葉と現実(あるいは世界)との関係はとてつもなく奥深いものがあるのに、それが気軽に素通りされていたからだと思う。
◆動き伸縮しているものを捉えることは難しい。そこで分節し固定化しこれを組み立てて把握する。しかしこれは仮定や割切りを含むので、今度は動きのまま伸縮のままを把握しようとする。するとこれは分節線の見えにくい認知し難く伝え難いものとなる。そこで、仮分節と動的把握の技術性が求められる。
◆レトリックの高質な実装へ。「本来のレトリックとは、私たちの認識と言語表現の避けがたい一面性を自覚し、それゆえに、もっと別の視点に立てばもっと別の展望がありうるのではないか…と探究する努力のことでもある。創造力と想像力のいとなみである」(佐藤信夫『レトリックの記号論』55頁)。