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涼宮ハルヒの憂鬱とはなんだったのか?【2009年版アニメ】

 涼宮ハルヒの憂鬱の2009年版アニメを視聴し終えましたが、なんともよくわからない作品でした。この結末は一体どこにあるのか? そのような疑問が残る作品です。

日常アニメ

 おそらく、本作は日常アニメなのだろう。狭義の意味での日常アニメではない。涼宮ハルヒとキョンのやり取りを見せる上での、日常だ。涼宮ハルヒが地球の中心であるとか、宇宙人や未来人、超能力者が登場するのは些末なことなのだ。

 中2によくある自分自身を万能と感じたり、友達を(例えば)超能力者だと思うときがあるだろう。所謂、ごっこ遊びの延長でだ。それを表しているのが、涼宮ハルヒを取り巻く物語である。
 それ故に、本作はSFでもなければ、ファンタジーでもない。ただの電波な学園モノ=日常アニメと捉えることができるのではないだろうか。

 普通の物語であれば、物語が進むにつれて、涼宮ハルヒとはなにか世界とはなにかと言う根本問題の解決に進むだろう。しかし、28話まで見終わっても、何も解決はされない。むしろ、28話の終わり方は非常に空虚で、なんでもない日常だった・・・(だから、なおさら虚しくなったわけだ)。
 アニメ版の28話において、幕引きはない。
 原作が終了していないのだから当然ではあるが、原作が終了していないアニメでも、結末は作るのがセオリーだ。例えば、「次の冒険に出るぞ」と、踏み出すシーンを終了に持ってくるのは、とてもありきたりだ。「旅は続く!」というのも、よくある展開だ。
 しかし、涼宮ハルヒの憂鬱は、終わりが明示されないまま、終わる。「あれ? これで終わり?」と拍子抜けする内容だ。

 あえて、何もない日常を終わりに持ってきたのだから、それなりに意味はあるのだろう。考察に値する問題ではある。ただ、それを期待していない場合は、やはり不満が残る。「せめて区切りはつけてほしい」、と。

主題がぼやけている

 原作が終了していない(はずの)ため、アニメ2期の1~28話でのことだが、28話の間で、主題がぶれている箇所がある。それがエンドレスエイトだ。あれがハルヒのために作られたシークエンスか、長門のために作られたシークエンスと捉えるかは、人によって受け止め方が違うだろう。炎上するほどの事柄である、一筋縄に受け止められることはない(と思う)。

 そのため、あくまで主観的な意見と前フリをして話を続けると。

 エンドレスエイトは、ハルヒの虚無感ーー満たされない思いを描いたものではない(※アニメの演出は)。長門への同情を誘うための演出が施されていると断言してよいだろう。
 もし仮に、ハルヒの虚無感を描きたかったのなら、8話も用意する必要はない。多くて3話で解決できるテーマである。それを8話も用意して、何度も追体験させるなど、長門への意識以外なにもない。登場人物の中で、過去の展開を覚えているのは長門だけであり、視聴者も過去の視聴内容を記憶しているのだ。それ以外の人物は、ループの最後でリセットされて記憶がなくなっているのである。

 もしハルヒを意識したなら、8話同じ内容を放送することはしない。なぜなら、ハルヒ自身が、過去の体験を忘れているからだ。ハルヒがリセットされているにもかかわらず、視聴者がそれを覚えていたら、感情移入の妨げになる。多くて3回が限界だろう。

 このようにハルヒとキョンの話が、エンドレスエイトまで展開されていて、突然エンドレスエイトから長門をクローズアップする主題に変わり、またハルヒとキョンの話に戻っていく。この主題の車線変更は、おそらく不要だったと思うのだが、どうなのだろう(劇場版を見たとき、また変わるかもしれないが・・・)。

なぜハルヒとキョンの話にまとめなかったのか?

 前述のように、エンドレスエイトを無駄に長く展開してしまったため、書ききれなかったものが多いように感じる。

 エンドレスエイトを3話にして、残り5話をクライマックスまでの山あり谷ありに何故しなかったのだろうか? なぜなんでもない日常でアニメ版が終了したのだろうか?

 あくまで主観的仮説なのだが、「おわり」を描写したくなかったのではないだろうか。涼宮ハルヒの憂鬱をアニメとはいえ、終わりにしたくなかった・・・。エンドレスエイトのように、最後の1日、やり残した印象を残すことで、涼宮ハルヒを繰り返そうとしているのではないだろうか?

 実際、エンディングとしては不十分だ。やり残しの印象は強い。だからこそ、涼宮ハルヒ的で良いのだ。
 あのエンディングを許容するつもりはない。しかし、涼宮ハルヒの憂鬱が描こうとしているテーマをなんとなく掴み取ろうとしたなら、そうせざるを得ないのかもしれない。区切りというものを存在させない。いわく言い難し・・・。。

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